吉村さんは嫌がるかもしれないけれど
ネット上で(論考や批評はもちろんのこと)
論考や批評になる前の吉村さんの思考の流れを読むことができるならば
大いに得るものがあるだろうと思ったので勝手に紹介。


吉村光弘さんのはてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/andsoon/


7月13日の「私が三太を始めたわけ」は
全文引用したいくらいなのだが我慢して
7月15日の文章より

私は、エッセイや身辺雑記ではなくて、この手の批評的なるものは、他者からのフィードバックがなければ、それは書かれなかったのと同じだと思っている。異論も反論も引き出せないのであれば、そんな文章はあってもなくても同じである。貨幣が交換されなければただの紙であるということと同じ意味で、「批評」も他者との間で何らかの交換がないと意味がない。もし、言語による批評行為に、意味や意義があるとするならば、それは一方的な「答え」を与えるのことではなくて、何らかの「問い」を喚起する点にこそある。その意味で、私の論考から、何の「問い」も異論も反論も引き出すことが出来ないとしたら、この私の論考には一ミリの価値もないのだろう。

 私はそもそも現況の音と言葉をめぐる関係性が、癒着し、硬直化している現状に対して疑義を呈する意味において「三太」を始めたのだ。もしも私の論考がきっかけになって、異論でも反論でも、何らかのアクションがあるならば、それこそが私の狙っていたことであり、むしろそうなれば願ったりかなったりだ。私には「仲間意識」も「帰属意識」も「身内意識」も所属する「コミュニティ」もない。

3、4年というと言い過ぎかもしれないがそのくらいの
まだ吉村さんがヘッドフォンとマイクのフィードバックを始める直前くらいに
ひょんなきっかけでネットを通じて吉村さんと知り合い
そのあと吉村さんは「三太」を始めてますます旺盛な活動を行っていくのだが
私は私が吉村さんから受けた影響、つまり私の中に形作られた吉村さんに
つまり吉村さんのある文章に直接反論異論をぶつけるかたちではないかたちで
常に誤解も含めた反論異論を時にはケンカをふっかけるくらいに
いろいろと考えてそれがどうにもひっかかってしょうがない
なにかの問いになる前の思考の流れとしてここに記されていくわけで
そういう事情であまり目には見えないけれど
思考のきっかけを与えてもらっていることにいつも感謝している。
同じことが川口君みつ君米子君s_oさん杉本拓さん江崎さん宇波さん
木下さん福井さんほかいろんな人たちにも言える。
とか言いつつも吉村さんの言葉を借りるかたちになるが
私にも「仲間意識」も「帰属意識」も「身内意識」も
所属する「コミュニティ」もないし必要もない、全然ない。