■B
急にはなしは変わるんですがこういったコピーバンド
http://www.youtube.com/watch?v=wUUfUAj-U5U
得も言われぬ感じはなんだと思いますか?


■A
人のふんどしで相撲を取る、とは別のなにかがありそうです。
ミスチルの曲を演奏するミスチルではない人たちを
見に行くとは一体どういうことなんでしょうね。
何を期待して行くのでしょう。
そしてこのミスチルではない人たちは何を求めているのでしょう。


■B
やっぱり曲を自分たちの好きな曲を演奏するのが楽しいのでしょう。
私たちも高校の頃オアシスのコピーバンドをやっていましたね。
いま思えば楽しいというよりもひたすら練習してタブ譜を覚えて
必死にみんなで合わせるというなにか一種の修行というか
よく分からない義務感使命感に追い立てられていたような気がします。
なんでバンド(でコピー)なんかするの?カラオケ行けばいいじゃん。
という友人もいたりしてそのとき私たちは
そういう問題じゃなくて自分たちで演奏することが大事なんだ
と思いましたよね。
やっぱり演奏そのものが目的なんですね。
演奏するためにたまたま曲が必要になったと。
コピーじゃなくても演奏そのものが目的というケースはたくさんありますね。


■C
演奏そのものが目的、というよりも演奏そのものが仕事の人たちもいます。
クラシックの演奏家スタジオミュージシャンとか。
あとは即興演奏家とか。
コピーバンド、職業演奏家、即興演奏家
このあいだの違いってなんでしょうね。
コピーバンドの演奏を見に行く人たちはやっぱり
そのバンドの友達とか知り合いとかその友達とか知り合いとか
音楽とは関係ない部分での動機なんでしょう。
私たちが高校の頃ライブをやった時も友達にチケットを売りつけるか
タダであげるか自分たちでノルマを払うかしかなかったですし。
かといって知らない人たちにも来て欲しいと思えるほどには
自分たちのやっていることに価値があるとは思っていませんし。


■B
コピーバンド、職業演奏家、即興演奏家
このあいだの違いというと
コピーバンド - 演奏が終点
職業演奏家 - 演奏が終点
即興演奏家 - 演奏が始点
という風に考えられませんか。
演奏のための演奏がそこで終わるかそこから始まるか。
直線的思考か円環的思考か。
[演奏のための演奏]か[演奏のための演奏のための演奏のための、、、、]か。


■A
コピーバンド、職業演奏家と即興演奏家
お互いに演奏が目的であり手段であるけれど
演奏するために演奏するか
演奏のために演奏するか
という違いがあるということでしょうか。


■C
いまふと思ったのですが
演奏そのものを目的とすることの二重の意味つまり
文字通り演奏そのものが目的であること(ということは)
演奏を手段だと看做さないこと、の
[演奏を手段だと看做さないこと]だけを取り出して
「手段」を消しながら「目的」もこっそり消す
なんてことはできるのでしょうか。
「手段」ではないこと[だけ]を意識することで
「目的」に意識がいかなくする、というか。


■A
現実の行為である演奏を手段だと看做さないことなどできるのでしょうか。
因果律や時間やエントロピーの増大の法則など、非可逆性の神話に
私たちが逆らう事などできるのでしょうか。
刷り込まれた(のか元々あるのかは私たちには分かりませんが)
原因としての目的があって結果として手段があるという因果律の概念に
私たちが逆らう事などできるのでしょうか。
私たちの世界では常に「〜から〜」であることが求められます。
「手段」ではないこと[だけ]を意識することで
「目的」に意識がいかなくすることが可能だとしても
[「目的」に意識がいかなくすること]が目的となり
[「手段」ではないこと[だけ]を意識すること]が手段になるでしょう。
手段を消そうということ自体がそもそも手段を前提としていて
手段がある限り自動的に目的も要請されます。
因果律は私たちの世界を取り囲む大きな壁です。


■B
ふと気になったのですが
原因 - 結果という関係と目的(意思) - 手段(行為)という関係を
お互いに因果律として対応させていますが
これらは対応させてもいいものなのでしょうか。


■A
目的も意思も原因と結果という関係においての原因という意味もあると思われますし
手段と行為も原因と結果という関係においての結果という意味もあると思われます。


■C
またふと思ったのですが
[円環的思考としての演奏のための演奏]の始まりとしての
演奏を始めるのが即興演奏家だとするなら
そしてその即興演奏家
[円環的思考としての演奏のための演奏]を
決して閉じることなく常に初めて始め続けるなら
そのような即興演奏家
創造と受容がほぼ同時に行われ
それらが円を描いて別のものとして再帰してくるというような
創造と受容が常に入れ替わる創造と受容の連鎖の
(単なる)ひとつの始まりとしての作者の
(単なる)ひとつのあり方だと言えないでしょうか。
創造と受容が常に入れ替わる創造と受容の連鎖の
「個」のレベルでの連鎖だと言えないでしょうか。


■A
「個」のレベルになるとまたはなしの位相が変わると思います。
創造と受容が常に入れ替わる創造と受容の連鎖が
どのようなものだと私たちは考えているのか
掘り下げる必要がありますね。
ただ単にみんなが何かしら創ればいい、というようなことでも
みんなが何かしらすでに創ってしまっている、というようなことでも
なさそうですし。


■C
言葉を聞き間違える/言い間違える、といったような
意味の[伝達]ではない意味の[遊び]のイメージが
なんとなくどこかにあります。


■A
それは連鎖というイメージであって
創造と受容の連鎖とはおそらく関係ないでしょう。