■A

常に行為そのものは最初の思惑を超えるとするなら
作者が思い通りの行為ができたと思うとき
その行為はすでに抑圧されているのではないか。
その度に世界は少しずつ貧しくなっていくのではないか。

とのことですが厳密な意味で
常に行為そのものは最初の思惑を超えるとするなら
作者のレベルで抑圧されていると考えるのは
行為に対する特権的な存在としての作者を
前提とした思考なのではないですか?


■B
まさしくその通りですね。
いまはこのようにまだまだいろんなものに足を取られていますが
私たちはこれから段階を経て閉じた作者性から開いた作者性へ
作者の概念を殺すのではなく少しづつ解消し(続け)ていく必要が
出てくるのではないかと思います。
権利や義務や倫理としての作者にしがみつくのは簡単ですが
あるひとつの可能性の始まりとして作者を捉えられないでしょうか。
それが起きた原因よりもそれが起きたことそのものから豊かさが生まれるような
単なる開始点としての作者というものはあり得るのでしょうか。


■C
閉じた作者性から開いた作者性、
あるひとつの可能性の始まりとしての作者
ということはなんとなく分かりますが
これは作り手(作者)も含めて全ての人間が受け手であり
始まりから先を(場合によっては始まりすらも)全て受け手に委ねる
つまり、解釈が全てということなのですか?
またそれは「楽しみ方は自由だ」「解釈は自由だ」
といったような態度とはどう違うのでしょうか?


■B
開いた作者性とはもちろんよくあるような
受け手の解釈が全てで「楽しみ方は自由だ」「解釈は自由だ」
というような態度のことではありません。
いま気付いたのですが作者(作り手)の側の議論だけだと不十分で紛らわしいですね。
作者(作り手)が開いていくというよりも
作り手と受け手の関係が開かれて解消されていくと考えた方がしっくりきます。
少し抽象的になってしまいますが、創造は受容であり受容は創造でもあるということです。
純粋な(それ自体独立した)創造がないのと同じように
純粋な(それ自体独立した)受容もありません。
創造する作り手/受容(消費)する受け手という分かりやすい制度を利用しているうちは
どんどんその関係が貧しくなっていくだけのように思えますし実際そう見えます。
たまたまそのとき作り手になった者は創造と呼ばれるものの受容を見つめること
たまたまそのとき受け手になった者は受容と呼ばれるものの創造を見つめること
創造と受容が常に入れ替わる創造と受容の連鎖に全ての人間が同じ立場で入っていくこと。
というよりもすでに全ての人間が
創造と受容が常に入れ替わる創造と受容の連鎖に同じ立場で入っていること。
このようなことをいま私たちは考えています。


■A
ことばでいろいろ考えるのももちろん大切ですが
このような思考をどのように実践していくかも大切です。
ことばと実践のサイクルが大切です。
私たちはどのように実践していくのでしょうか。
また

純粋な(それ自体独立した)創造がないのと同じように
純粋な(それ自体独立した)受容もありません。

という部分ももう少し具体的に考えてみませんか。


■C
実践として考えたとき
形式として開かれたものが必ずしも
意識として開かれているわけではないのが
なかなか難しいところですね。
純粋な(それ自体独立した)創造はないということは
全くなにもないところからは
ビッグバンのようなことが起きない限り
何も生まれ得ないという意味でしょうか。
(それなら何故ビッグバンが起こり得たのか問題になりますが。。)
または静止したものが動き出すためには
なんらかの動き方向強さとしての
エネルギーが必要だということでしょうか。
純粋な(それ自体独立した)受容はないということは
右耳から左耳へ抜けて全く何も残さないような
体験などないということでしょうか。
ささいな意識の状態の変化にも注意深く
目を向けることがそのまま創造とも呼べる
ということなのでしょうか。
何かを見て別の何かを連想すること
その連想自体がそのまま創造とも呼べる
ということなのでしょうか。


■A
あと
権利や義務や倫理としての作者にしがみつくとはどういうことか、
労働と消費という観点から作り手と受け手という制度とはなにか、
もう少しきちんと考えてみることも必要ではないでしょうか。