写真家 福居伸宏さんのことば
ungsplatz〔練習場〕6/21分より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070621

写真に何ができるのか。そう問われたなら、私はこう答えるでしょう。言葉では認識できないものを、あるいは、言葉があることでかえって認識されないものを、言葉とは違ったかたちで浮かび上がらせることができる、と。たとえば都市の夜。あらかじめ準備された凡庸な言葉とイメージによって覆い隠されている現実*3を、カメラという人工網膜は克明に露出します。指標から指標をたどる制度化された視覚からの逸脱。そこに写真の可能性をみます。


※大筋考えにかわりありませんが、基本的に内山英明氏の『東 京 デ ー モ ン』なる写真集が発売された2005年当時のレベルの私が思ったことなので、細かい部分では若干表現に修正を加えたい部分もあります。


3:もちろん、そのものではなく、あくまでも再現(現実の似姿)でしかありません。

福井さんの考える写真と私の考える録音はほとんど同じものだと思う。
そもそも写真と録音が本質的に同じものだからだとも思う。
写っているものをひとつの「絵」としてだけ見るとき
(厳密にいえばそんなことは不可能だが)
それは写真ではなくどちらかというと絵画である。
写真でも録音でも技術によって何かを記録する限り
バルトの言う《それはかつてあった》には
嫌でもなんらかのかたちで関わらなければならない。
私はけっこう最近まで写真を面白いと思ってなくて
撮ってしまえばそれっぽくもなんとでもなるし
絵になるものや意味ありげなものを撮ればなおさら
それっぽくもなんとでもなるのではないだろうかと思っていて
写真を撮る人がどういう瞬間にシャッターを押そうと思うのかが
全く想像できなくてなにを撮ってもどこを撮っても
それなりにありきたりのものになってしまうような気がして
つまり写真を通して他人の目で世界を見ることに
これっぽっちも価値があると思えなかったのは
写真とは写真を通して他人の目で世界を見ることだと思いこんでいたからで
他人の旅行のつまらない土産話を聞かされているような
物語を語ろうとして安っぽいテレビドラマになっているような
つまり指標から指標をたどる制度化された視覚による写真しか
見ていなかったからというだけでもないだろうけど
そういうものが写真だと思ってしまっていたのも確かで
そういうものも写真だろうから厄介だとも思う。