JDN /ギャラリー /ウェブ スカイドア 現代篇「高柳恵里」
http://www.japandesign.jp/GALLERY/NOW/takayanagieri/index.html
倉林 靖さんという美術評論家の方による「「日常」の独自性」という文章の中に

20世紀美術に特有の、美術とそうでないものとを分ける「制度」を主題とした、
提示されたもの自体にはさして意味のない「観念芸術」

というデュシャンレディメイドを思わせる一節を発見。
(高柳恵里は好きだがこの引用は高柳恵里には関係ない。)
本当にそうだろうか。
ただ「かたち」としての意味はないというだけだろうか。
主題/提示という二分法を前提にしているのだろうか。
主題と提示されたものは分離可能なのだろうか。
「観念芸術」が「観念芸術」という芸術になった時に
なにか失われたものがあるのではないだろうか。
提示されたもの自体にはさして意味のない(ようにある文脈では見える)ことは
美術とそうでないものとを分ける「制度」を主題としたことによる
要請なのだけれど、もし厳密な意味で本当に
提示されたもの自体にさして意味がないことが可能であれば
「美術とそうでないものとを分ける「制度」」に限らず
あらゆる「主題」が成り立たなくなる
ということを突き詰めた人は誰かいるのだろうか。
どんな芸術であっても提示されたものが全てであり
主題(とその可能性の範囲)は提示されたものに依存していて
当たり前のことだが何かを提示しなければ芸術たりえないのだが
本当にそうだろうか。
石を削って彫刻のかたちを作るのも
意味を削って観念のかたちを作るのも
やっていることはどっちも同じなのではないのだろうか。
私の行為の解釈が私の仕事であって
私の行為は私の仕事ではないと
私の行為で示すことはできるのだろうか。