10分経った。
と書く。
いったいどこで10分経ったのだろうか。
10分経ったと書けば
とにかくどこかで10分経ったことになる。
なぜこういうことが起き得るのか。
 10分経った。
 と書く。
 いったいどこで10分経ったのだろうか。
と「どこで」という疑問が湧くのはなぜか。
その逆はあり得るか。
たとえば、文字である空間の状況を記述してみる。
文字を使う以上全ての要素を同時に示す事はできなくて
その記述には必ず順番が生じる。
そういうかたちで経過という時間が生まれるのではないか。
文字というテクノロジーを思い浮かべるとき
そこには時間も空間もないけれど
それを使うとき時間と空間が同時に生まれるのではないか。


音は時間がなければ存在しないけれど、かといって
時間だけで存在するかというとそうではなくて
時間が過ぎるということが
なんらかの変化としてしか顕れないとすると
やはり変化するもの(としての/を含む)空間が必要になる、というか
ただ単に音が鳴る空気がないといった方が早いかもしれないが
この喩えはあまり本質的でないような気がする。
もちろん空間だけでも時間がないから音は存在しない。
なんらかの変化としての音は空間とどんな繋がりができるのか。
時間は空間がある限り流れ続けるし空間は時間がある限り変化し続ける。
空間というキャンバスに時間という線を引く
というイメージはちょっと違うような気がする。
空間が変化することそのものが時間だと考えると
音楽は空間が変化することそのものを
デザインすることになるのだろうか。