■2007年5月11日(金) 
FUKUGAN GALLERYにて
「com+position1」(1は上付き)
磯端伸一 compose, guitar
江崎將史 compose, trumpet
木下和重 compose, violin
竹内光輝 compose, flute


14:00ごろ出発して梅田まで
岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」
を読む。
阪急古書のまち梁山泊にて
エドガール・モラン「複雑性とはなにか」を買う。

たしかに複雑性は、単純化思考が力を失うところで現れる。
しかし複雑性は、みずからのなかに、
認識に秩序、明晰、識別、的確さをもたらす一切のものを統合する。
純化思考が現実の複雑性を解体するのにたいして、
複雑思考は、思考の単純化様式をできるかぎりみずからのなかに統合する。
しかし、みずからを現実のなかにある現実的なものの反映だと思いこんでいる単純化がもたらす、
切断的で還元的で一次元的な、結局はひとびとを盲目化する論理的帰結は拒絶するのである。

ミシェル・レリスの日記1、2巻も欲しかったが要検討。
まずは「夜なき夜、昼なき昼」を買うべきかどうだろうか。
滝口修造の詩集をどこかで見かけたがどこだったか、東京だった気もする。
紀伊国屋書店福永信「コップとコッペパンとペン」をチラ見。
近所のブックファーストにもあるので今買う必要はなし。
前作「アクロバット前夜」は文字通りアクロバットな作りの小説だった。
小説構造が、というより(小説構造も、というべきか)まず文字組がアクロバット
昨日(2007年5月13日(日))再読してみたが
確かにそのゴロリと放り出されたブツ切りの感じは
中原昌也と近い気がしなくもない。
心斎橋まで歩いて移動。
ベルリンブックスとキングコングとスタンダードブックストア。
アセンスは行くのが面倒くさくなった。
キングコングでCDを20枚弱売って7,000円弱。
CDを売ってライブを見て、本を買う。
スタンダードブックストアのカフェで天然酵母パンを3つ買う。
やっぱり作ってからいくらか時間が経っているパンは焼いた方が美味しい。
そうでないのもあるんだろうけど。
FUKUGAN GALLERYではいま岩井知子さんの展示をやっている。
ベニヤ板なんかのいろんな木の板にハンダごてでドローイングしたり、
壁に直接かたちを描いて、綺麗なエメラルドグリーンのLANケーブルや
フリマで手に入れたというゴルフかなんかに使うケースについていた
ポンポンやなんかで飾り付けたり。
木の木目やいろんな木のかたち(丸いベニヤ、三角のベニヤ、スノコ、ただの細長い板など)と
ハンダごてで焦がすドローイングが自然に混じり合っているのが素晴らしいと思う。
お互いに利害の一致はないがケンカする理由もない、というゆるいがお互いに懐の広い感じ。
「com+position1」(1は上付き) は
まず江崎さんの曲「未定」、次に木下さんの曲「staccato for 4P」、
休憩をはさんでみつ君の曲「longbow」、最後に磯端さんの曲「CDE & cliche」。
江崎さんの曲はマークシートのような楕円が並んだ楽譜を使ってパターンを作曲したもの。
磯端さんを中心に4人でパターンを淡々と演奏していく。
いつもながらユーモアと構造の明晰さのバランスが面白いと思う。
江崎さんの場合、やることなすこと「らしい」ものになるのだが、
新しい試みである作曲作品においても無理なく「らしい」ものになっているのは驚きだ。
木下さんの曲の時は何を考えていたか全く思い出せない。
聴いていなかったわけではないが何を考えていたかが思い出せない。
何も考えていなかったのかもしれない。
2曲連続で疲れていたのかもしれない。
みつ君の曲はタイトル通りロングトーンによる構成。
それぞれの音の関わり方が良い意味でさっぱりしていたように思う。
嫌味がないというか。
飽きそうで意外に飽きない。
配布されたそれぞれの曲紹介のみつ君の文章に
「これは作曲行為から、作家性からの回避である」
とあったが、ある形式のみの楽曲であっても
それが作曲行為から、また作家性からの回避であることにはならない。
なぜならその形式がいかなるものであれ、
それを定めたこと、選んだこと自体が恣意的な作曲行為であり
その行為は作家に帰属するものだからだ。
どんな些細なことでも自分で選んだことは自分に属してしまうものであり
どんな重大なことでも自分で選んでいないことは自分には属さない。
こういう風にどんどん範囲を拡大すると矛盾に突き当たる。
ある問いをある限定された範囲の中だけで考えることに
違和感を感じるのは、あまりに厳密になり過ぎているからだろうか。
と、ここまで書いてきて
みつ君がその矛盾を意識していなかったわけではなくて
あえてその地点に留まって表現の可能性を探っていて
(実はそうするしか道はないのかもしれないのだが)
ひょっとするとただ単に言葉としての表現の問題かもしれないと思ってきた。
「これは作曲行為、作家性に関する難問についてのあるひとつの思考であり、
私は楽曲のある形式だけを設定することにした。」
とでも書いてあればそれはそれとして納得していただろう。
それはそれとして、というのはあまり良いことではないが
それはそれとしてそういう風に納得していただろう。
磯端さんの曲はドレミの音と慣用表現という厄介なテーマでありながら
音楽としてはとてもとっつきやすいものであるからこそ
さらに厄介なものであるように感じた。
江崎さん、木下さん、みつ君がワルツのようなリズムで
それぞれ似たような単調な伴奏を淡々とするなか
磯端さんがどこかで耳にしたことのあるようなないような
安定感のある、言い方を変えれば、割とベタなフレーズを
安定感のある、言い方を変えれば、割とベタな進行で弾いていく。
ひたすら単調な伴奏でいくつかの(まさに)慣用表現が通り過ぎて行く
という楽曲だと私は解釈したのだが、全く的外れなのかもしれない。
とっつきやすいにも関わらずなんとなく不穏な空気を感じたのも
私だけなのかもしれず、さらに気のせいなのかもしれない。