今度、大阪と東京でご一緒する吉村さんのCD
吉村光弘「and so on/以下同様」を遅ればせながら聴く。
以下同様というタイトルは吉村さんのやっていることの
いろんな面のそれぞれをうまく指し示していて感心する。


マイクとヘッドフォン・スピーカーがある。
マイクからは外界の音が取り込まれている。
外界の音は増幅されヘッドフォン・スピーカーから出力される。
そしてその増幅された外界の音がさらに
外界の音としてマイクに取り込まれる。
そして、以下同様。
このサイクルを繰り返すことにより
外界の音のある帯域のみが強調、純化され
ピーというハウリング、いわゆるフィードバックを起こす。


マイク、もしくは増幅させる機材のスイッチを切らない限り
それ自体では限りない繰り返しの運動を続ける。
その限りない繰り返しの運動の円環は
外界の変化を構造として内包している。
つまり無限の変化を内包している。
見聞きするところによると吉村さんは
どうやら演奏中ほとんど動かないらしい。
無限の繰り返し、無限の変化、
無限(という概念)に対するこの謙虚な態度はとても共感が持てる。
これは想像の域を出ないのだが、おそらく吉村さんは
動かないのではなく動けないのだと思う。
動いてしまうとただでさえいろいろと限定されている人間が
さらに狭い範囲でしか無限に立ち会うことができないからではないか。
でもそのうち動き出すかもしれない。
無限とは強固な概念のように見えて
いくらでも反転、転回するとっかかりがあるようにも思える。


ここまで吉村さんのやっていることについて書いた。
なのでその演奏を録音したCDについて書く。


よくある疑問だが
吉村さんの演奏に立ち会うことは面白いだろうが
それを録音して固定したものに面白さがあるのか疑問であった。
その場限りの演奏を録音、固定することは
「いまここ」が「いつかどこかで」を体験するための
「いつでもどこでも」として浮遊していくことである。
吉村さんの演奏は楽器の演奏よりもさらに「いまここ」性が強いため
なおさらその演奏を録音、固定することに疑問があった。
しかし思いがけない方向からこの疑問はズラされることになる。


私は音楽をかけながら風呂で湯船に浸かって本を読む習慣があるのだが
(湯船に浸かって読むのがなぜか一番集中できる)
吉村さんのCDも風呂でガルシアマルケス百年の孤独を読みながら聴いた。
風呂で聴く、といっても風呂の中から
ラジカセのスタートボタンを押すわけではなく
押してから風呂に向かうわけだが、
いつものようにスタートボタンを押して風呂に向かおうと
ラジカセをまたいだ時、ちょうど音が変化した。
一瞬だが私は自分の動きによって音が変化したのだと錯覚して
驚いたのだが、すぐこれは録音したものだと思い直した。
しかしそれにも関わらず入浴中にも何回か同じ錯覚を起こしてしまい
どうやら、この音楽を聴いていると
ラジカセでCDが鳴っているというよりも、
ラジカセ自体が吉村さんの使うマイクとヘッドフォン・スピーカーのように
外界の音を取り込んだフィードバックを起こしていると勘違いするらしい。


楽器の音がラジカセのスピーカーから出てくるのはよく考えると不自然だが
ラジカセ自体がフィードバックを起こしていると錯覚するのは
なんら不自然なことではないのではないか。
例えば、ラジカセからギターの音が聴こえてきたとする。
私たちはすぐにあらかじめ録音されたギターの音が
CDかカセットかラジオかなんでもいいがそういうメディアを経由して
スピーカーから鳴っていることを了解するだろう。
なぜか。
ギターの音はするが目の前にギターはないからである。
ラジカセから音が出ていることが認識できているならば
その音が実際のギターから出ている音だとは決して思わない。
いま聴いている音を記憶と照らし合わせて認識するために
あらゆる音には空気振動としての情報以外の情報がつきまとう。
一番単純なもので、空気振動としての音と
空気を振動させる媒介としてのモノの形との繋がりなどがある。
私たちは分類を可能にするなんらかの目印を知らず知らず探している。
しかも例外として分類不可能という分類としての「なにかの音」を含みながら。


その点、吉村さんのフィードバック音は
空気振動としての情報とその他の情報の結びつきが
非常に曖昧で流動的ですらあるように思える。
もちろんこれは吉村さんの音に固有のものではなく
フィードバック音一般に特有のものではあるのだが、
これはどういうことだろうか。


中村としまるさんのノーインプットミキシングボードが内部フィードバックなら
吉村さんのマイクとヘッドフォン・スピーカーは外部フィードバックだと言える。
外部フィードバックは入力と出力が空気を介して繋がっている。
つまり、空気を介して繋がるためにはマイクとスピーカーがなければならない。
言い換えればマイクとスピーカーしかいらないことになる。
そして、ラジカセはマイクこそないものの
外部フィードバックの必要要件のひとつである
スピーカーを持っている。
少々強引ではあるが、このことは
私がラジカセ自体がフィードバックを起こしていると錯覚したことの
原因のひとつだと考えられないだろうか。
つまり、フィードバック音は楽器に比べると
マイクとスピーカーの形にゆるやかながらも楽器とは違う質の多様性があることから
空気振動としての音と空気を振動させる媒介としてのモノの形との繋がりが
非常に曖昧で移り変わりやすい。
そのため錯覚が起きたのではないか。


もちろん、いままで書いてきたことよりも
フィードバックをコンピュータの内蔵マイクと内蔵スピーカーで起こしたり
同じようなことに私も親しんでいることが大きいとは思うが、
吉村さんの音楽をCDを介して聴いているあいだ、
いまここで「いつでもどこでも」が「いまここ」になる、
とまでは言わないが、
それに繋がるような出来事が起きていたのは確かである。
ただの再生、再現とは異なるリアリティの生成の
可能性についてのヒントが、意図されていないにしても
示されているのかもしれない。


また、フィードバック音は
楽器やその他の音の出るものほど
空気振動としての音と
空気を振動させる媒介としてのモノの形との
繋がりは強くないが、
コンピュータのように全くないわけではない、
という奇妙なバランスのものであることも
今回改めて感じた。


と、一回アップした後に読み返していたらひとつ気付いたことがあるので追記。
今回楽器の音とフィードバックの音を比べたが、
楽器やその他音の出るものの音は
その楽器やその他音の出るものの形状、素材感など
モノのイメージで認識されるのに対して
フィードバックの音は何か特定のモノではなく
「フィードバック」というコトのイメージで認識されている。
外部フィードバックの必要要件うんぬんのくだりは
おそらくこのことを言いたかったのだと思う。