前回の文章を読み直してみると
ラストの結末の為に長々と文章を読むのが嫌だというよりも
ラストの結末の為「だけ」に長々と文章を読むのが嫌なのであったが
いちいち文章を直さないというのも最近決めたことのひとつで
あとで別の文章として直せばそれに触発されて
また違う連想が浮かんでくるかもしれないからで
ラストの結末の為「だけ」に長々と文章を読むのが嫌だというはなしに戻るが
これは小島信夫の諸作品とカフカの未完の長編を読んだのも
なにかしら影響があるだろうが、昔から思っていた事で
なぜ小説や映画やそういう類いのものは
その作品そのものに関係することしか描かれていないのかが
ずっと気になっていて
(こんなことは当たり前なのかもしれないが
どうしても受け入れられないことを
手がかりにするのが一番確実だと思う)
日常生活においてどこかに移動したいとすると
徒歩か自転車か電車か車か飛行機か船かなんでもいいのだが
とにかくその手段におけるしかるべき時間をかけないといけなくて
それに比べると(比べるのはおかしいとも考えられるが)
小説や映画やそういう類いのものが
現実にあるそういう時間に則っているように見えて
実は都合よく捻じ曲げてしまっているようにしか見えなくて
というより時間というものが
はなしを展開し構成する基盤としか思われていないというか
そういうものとしてそれはそう見るしかないのかと思っているところに
小島信夫の小説に出会えたのはけっこう大きいことで
「残光」を読んでいるあいだ
その書かれていることがどうとかいうより
世の中にはたくさんの人がいるしかつていた
世の中にはたくさんの出来事があるしかつてあった
ということが実感として感じられて面白いのだが
もちろんそんなことは一文字も書いてなくて
この感じは大学受験の為に新幹線で神戸に向かう時
何十分も窓の外に流れていく家々を眺めていたら
本当に自分の知らないところにも人が住んでいる!
とふと思ったことと近いようだ。