NHKの番組を好きなのは
内容としての面白さももちろんあるのだが
語り口が穏やかだったり
余計な演出としての音楽がなかったり
つまるところ、静かだからだ。


昨日風呂で読んだ本からのメモ
新宮一成立木康介 編「フロイト=ラカン」より

 「一の線」から自分を見るということは、
他者から自分を見るということである。
どんな他者から見てもその自分は一定して変わらない方が
自分の気持ちは安定するだろうから、逆に、
自分を見てくれている他者は、いちいちの他者ではなく、
ありとあらゆる他者を代表するような、
ありえないほど普遍的な他者であって欲しい。
しかしその自分は、つまらないものであって当然である。
他者が普遍的で広大無辺であればあるだけ、
自分は無いに等しい物であるべきだから。
異国を旅するということは、
そのような他者に出会い続け、
自分をどんどんつまらなくしていくことである。
 「一の線」というのは、他者の側に開いている隙間であり、
主体はその隙間に入って、元の自分を見るのであるから、
元の自分は、正しくは、もう元の場所にはいなくなっているはずである。
ところが、この「いなくなっている」ということを本式に徹底させると、
自分を見出すということなど、そもそも形式矛盾になってしまう。
しかし、人間は自己を失ったままではいられない。
そこで、「いない」ということを、一つの「不在の対象」として、
それでもやはり見出すことが必要になってくる。
せっかく他者の中に入っても、自分を見失ったら、
「元も子もなくなって」しまう。それは避けたい。
 だから「一の線」を通って他者の側に入る人は、
元の自分がいた場所に「不在」を表わす何らかの品を置いておく。
これが「対象a」である。
いや、正確に言えば、「品を置く」というよりも、
不在の空虚から幻覚的にそうした対象を「生み出す」のである。

このことは私が野外録音でやっていることとかなり近い、というより
野外録音を通して理解しようとしている欲望のひとつとかなり近い。
とはいっても、
この文章でもこの前後の文章でも
「どんな他者から見てもその自分は一定して変わらない方が
自分の気持ちは安定するだろう」ことの根拠は分からないし、
「そのような他者から見てこそ、
自分がどのように見えているかが決定できる」ことや
「他者が普遍的で広大無辺であればあるだけ、
自分は無いに等しい物であるべき」根拠も分からない。
だからこれらの分からないことが何なのかを理解したいと思う。
これが野外録音を通して理解しようとしている欲望のひとつである。
形式としての類似点を挙げておくと、
「他者から自分を見るということ、他者の側に開いている隙間」と
テープレコーダーで音を録音すること、録音しているあいだ
テープレコーダーを意識することが対応していて、
「元の自分がいた場所に「不在」を表わす何らかの品を置いておく」ことと
野外の音と一緒に自分が出した音も録音することが対応していて、
「他者が普遍的で広大無辺であればあるだけ、
自分は無いに等しい物であるべき」ことと
コンピュータによるフィードバック音が対応している。
いまでもコンピュータによるフィードバック音が妥当かどうかは問題だが
とにかく、誰でも出せる、限りなくつまらない音であることが必要だという
理由のない直観だけは最初の段階からあった。


もちろんこういう考えがあっての事ではなく
ましてやこういう本を読んでその内容を
なんらかの表現に置き換えているわけでもなく
考えになる前の段階のもっと曖昧なところから
コンピュータで音を出しながら野外録音という
ひとつの「かたち」がたまたま表れてきただけで
偶然の一致なのだが、実はそれが偶然でなく
なにかしら繋がりがありそうだということや
過去にそういうことを突き詰めて考えた人がいるということを思うと
人間の底知れぬ面白さを感じて嬉しくなる。


あと、引用した部分を読んでいて、その他にも
藤原新也が最初のインド旅行の動機について尋ねられて
「負けに行ったのかもしれない」
というような答えをしていたことも思い出した。


「異国を旅するということは、
そのような他者に出会い続け、
自分をどんどんつまらなくしていくこと」