木下美紗都 『海 東京 さよなら』 セルフ・ライナーノーツ
http://www.faderbyheadz.com/release/headz87.html


10編の「短編」「小説」というのは
言い過ぎたかもしれない、というか
一般的な見方からすればずれているかもしれない。
長さ的に短編というには短いのかもしれないが
このくらいの長さのものを何と呼ぶか知らない。
掌編?
ライナーノーツを小説と呼ぶのがどうなのかも分からない。
しかしひとつの思考と時間と空間の立ち上がるのを感じたので
どう呼ぶかは別にしてそういう意味である。


保坂和志の「小説の自由」「小説の誕生」を読んで
そこで書かれていることと共に実感としても感じるのだが
見たり聞いたりしたことや考えたこと感じたことを
言葉によって秩序あるものとして新たな体験として
再生成するのはとても難しい。
たぶん「小説の自由」の方だったと思うが
カミュの「ペスト」か他の小説だったかの内容と絡めて
形容詞のことを話題にしていたが、
見たり聞いたりしたことや考えたこと感じたことを
言葉によって秩序あるものとして新たな体験として
再生成するにあたって
形容詞は非常にやっかいな存在だ。
例えば私が書いた木下美紗都 『海 東京 さよなら』 についての文章では
「のびのびした」という形容詞を使っているが
これだけでは結局何も表していなくて
つまり読む側に何も生成されないということで、
具体例として「ぱぱぼっくすのうたごえ」があるから
「どう」「のびのび」しているのかが
多少は分かるようになっているが、
ぱぱぼっくすのうたごえを知らない人は
自前の「のびのび」の解釈でこの文を読むしかないが
「のびのび」の解釈なんてあまりに漠然としていて
結局何も表していないも同然ではないだろうか。
だから私が書いた木下美紗都 『海 東京 さよなら』 についての文章で
この音楽に興味を持つ人がいるとすれば
おそらくそれは後半の部分によってであろうと思う。