計算の質量のなさ、というよりも
計算の物質性のなさ、という方が
言わんとする事に近いかもしれない。
いまふと思い出したのだが
私の考えている物質性は
郡司ペギオ幸夫が「生きていることの科学」で
書いている「質料性」から来ているのかもしれない。
「ボールペンがインク切れで書けなくなっても
紙にボールペンの先を強く押し付けて傷を付ければ
簡単なメモくらいは書ける」
というような例で示されていたことが
計算にはないのだが、
ないというのは私の思い込みで
それに似たことがあるのではないか、
もしなければそのないという特性で生まれるものはなにか、
ということを考える方が楽しいと思う。
と、ここまで書いてきて、
おそらくなければないで上記の質料性のようなことを
計算で実現するのは可能であることにふと気付いて
そういう方面はやはり楽しくない。
ただ単に複雑になっていくだけで
複雑になるということが単純すぎるからだ。
規則が増殖していってどんどん大きくなるけれど
その規則の及ばないところはただの空白になるだけで
なんというか想像の余地がなくなってしまうように思う。
というよりもただ単に「きりがない」。
だからといって、計算だからこそできること
なんていうのを探すのもたぶん楽しくなくて、
いま計算によって可能になったとか言われているものは
物理的に厳しかった(無理とは言わない)ものが
計算の仮想空間によって
その制限が緩くなった(なくなったとは言わない)だけで
厳密には「計算だからこそできること」ではないのではないか、
という気持ちを持っているから楽しくなくて、
それでも何かありそうな気がしているのはなぜだろうか。
いまひとしきり考えたが出てこない。
願望だけではないはずだ。