計算と芸術、複製技術と芸術
計算と音楽、録音再生と音楽
複製技術にはいままでいろんなことが起きてきたが
計算にもこれからいろんなことが起きるだろう。
計算の質量のなさにはいろんな可能性がある。
質量にしかない可能性以外のすべての可能性があるのだが
ひとつでなんにでもなる便利な道具として
実体を与えられるのを待つゴーストのようなものとして
「計算で何をするか」をベースに考えるのはあまり楽しくない。
計算で自然を再現することとはなにか。
計算で可能性の空間をつくることとはなにか。
計算が計算として成り立つのはなぜか。
計算が軋むとしたら
計算と質量が繋がる境目でのことだろうが
計算それ自体は軋むのだろうか。
そもそも計算に質量はないのか。