前回書いたことについて、
書いている時も思っていたが、やはり
知覚と思考を対比するのはなにかおかしくて
とはいってもおかしいなりにイメージを掘り下げてみるが、
なにか知覚される対象とそれを知覚する主体があるとして
私が「知覚重視」という時イメージしているのは
その対象の物理現象としての刺激をあらゆる方法で追求することで
ここで気になるのは、物理現象としての刺激は
それを知覚する主体の知覚そのもののプロセスと
どう関係するのか、ということで、もちろん
単純に刺激の種類や大きさ強さとプロセスの豊かさは比例するとも、
単純に刺激の種類や大きさ強さとプロセスの豊かさは無関係だとも思わないが、
対象の物理現象としての刺激は物理現象であるだけに検証しやすいが
どうにも知覚そのもののプロセスに関してはいまひとつよく分からなくて
私に分かるのはどうやら「思い込み」とか「合理性」が
関係している気がする、くらいで、日常生活においてさえ
何かを見たり聞いたり触ったりした時に自分の中で
何が起きているのかなんてさっぱり分からないくらいだから
映画や音楽や絵画や写真や演劇や小説などを
見たり聞いたり読んだりしている時に自分の中で
何が起きているのかなんてさっぱり分からなくて、
分からないのは分からないのだが、日常生活はとりあえず置いておくとして
そうではない部分でもあまり大したことは起きていないような気もして
たとえば、ただ自分の好きなものを反芻したり増やしたりする喜びや
自分の知らない自分の好きなものを探す喜びとかそういう
自分の中で完結するようなことばかりが占めているようで、
我ながらそういう狭いところでぐるぐる回っているのも
アホらしいと思って今日に至る。