いつもいつも、そしてずっと頭から離れなかったり
かといえば離れてたりする事柄があって、
みんなは私がひっかかっている問題なんか
とうの昔に解決済みで、その上で
絵画やら映像やら写真やら音楽やらデザインやら
野球やらサッカーやら哲学やら農業やら政治やら
やっているのかもしれないという疑念がそれで、
私は元々あまり「つくる」ことには喜びを感じないので
専ら、私や他者や時間や空間や思考などなど
そういう世界のもろもろを含むこの全てについて
部分を積み重ねたりとかモデルを作ったりとか
方法はまあなんでもいいのだがちょっとでも
直に掴めないかと悪戦苦闘しているわけで、
みんなは「つくる」ことの良いところも悪いところも
分かった上できちんとバランスを取って距離を置いて
「あえて」そうしているために、それを拒否する私なんかより
もっと確実に世界のもろもろを含むこの全てを
直に掴んでいるのか?と思ったりもするわけだが
それを確かめる術などなく、結局はまあいいかという
気持ちになってしまっていて、それでもなんとなく思うのは
世界でも現実でも抽象でも具象でも
なんでもどんなことでもものでもいいが
とにかくなにかしらそれらが軋むところから
整理整頓分類収納されないままの状態が
見れるんじゃないかということであるが、
見れるかどうかなんかさっぱり分かりはしないし、
たとえ整理整頓分類収納されないままの状態があるとして
それはおそらく整理整頓分類収納されないままの状態と呼ぶことさえ
できないだろうしそれが状態と呼べるのかすらよく分からない上に
見える、ということ自体が視覚的な比喩でしかなく、
さらにもう見るとか見ないとかではないのかもしれないが、
見るとか見ないとかではないかどうかなんかさっぱり分かりはしないし、
たとえ視覚的な比喩に留まって見るとか見ないとかではないとしても
結局は人間の知覚の限界がその限界であるだろうし
知覚に限界があるのなら思考にも限界がありそうなものだが
知覚の限界が人間の仕組みとしての物理的な限界であるのに対して
思考の限界は人間の仕組みとしての物理的な限界も多少はあるだろうが
あまり影響はないと思われるので原理的には無限であると考えても
差し支えないのかもしれない、という前提に立つと
やはり知覚ではなく思考を相手にするべきなのかもしれない、
と書いているうちになんだか勝手にややこしいことになってきたが
ここまでは思い付いてなくて、まさに「ここまできて」まで書いて思い付いた
「結局何が言いたかったか」は知覚を重視すること、たとえば
網膜、鼓膜などを重視すること、目の喜び、耳の喜びなどを重視すること
とは一体何なのだろうか、ということと、それらに拠らずに
私や他者や時間や空間や思考などそういう世界のもろもろを含むこの全てを
軋ませたりずらしたり脱臼させたり解消させたりできるのだろうか、ということ
であるが、もちろん知覚自体を否定するわけにはいかないので
具体的にはそれを批判的に検証しつつ、極力それに拠らない方法を
探るしかないのだろうか。