表現や制作などの言葉で指し示されている出来事は
一般的に思われているように
自己を(何かを)表わすものなのだろうか。


実際はその逆で
まず何かを「表わす」ということがあって
その結果、自己が規定され、
さらにそれに沿って何かを「表わして」
さらにそれにそって自己が、、、、
という循環なのではないか。


また、私自身の経験に照らし合わせてみても
一般に言われる通り「最初は真似から」であり
結局は真似の真似の真似の真似、、、、
もしくは参照の参照の参照の参照、、、、
という循環運動である。


そうなるとその循環運動の間にどのようなフィルターをかけるかが
唯一、自己の発揮される場所だということになるのだが
それもその時点での外部からの影響に大きく左右されるので
結局は循環に何を取り入れ何を捨てるか、という
「選択」の問題になってしまう。


しかもその「選択」における基準も
その都度外部からの影響を受けつつ選択がなされて
さらにその選択自体によって
次の選択における選択肢も決まる、というような
循環運動によって規定されており
表現と呼ばれるものは二重の循環運動によって
生み出されているように思える。


外部からの影響に依存しながら
自己規定のための自己表現
自己表現のための自己規定
という二重の循環運動を行っているだけで
実際は何も規定できていないし
何も表わしていないのではないか。




ただ流れ、巡っていくだけでしかない循環の表現に
耐えられなくなってしまったのは
おそらく私がひと以上に、また自分が思っているよりもずっと(むしろ逆に)
オリジナリティとか「個性」というものにこだわる人間だったからで、
かといって循環の表現を否定したり批判したところで何も変わらず、
また、反個性という「個性」を目指したところで
ただ問題が反転しているだけで結局は何も変わらず、
どうすればいいかというと未だによく分からないのだが、
なにものでもないということはなにものでもあるということで
なにものでもあるということはなにものでもないということが
なにかの足しになるのかもしれないと思っている。