ひとつ訂正。


2006-10-1で書いたイオン大日ショッピングセンターの写真は
どうやら本城直季の写真のようで、訂正します。
ポスターを印刷するまでに本物の店舗を撮影するのは不可能だろう
という特に裏付けのない推論だったのでどうかとは思っていて
よく考えたら外側さえできてれば撮影できるわけで
その一瞬の思い込みは恐ろしいと思います。


といってもこの時の文章とあまり関係ないことではあります。

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「人それぞれ」という免罪符をどうにかして
無効にしたいとずっと思いつづけていて、
今までの経験から鑑みるに
この言葉が出てくるのは決まって
なんらかのはなしが行き詰まった
(ように見えるだけだが)時であり
そこから先の思考を放棄する時である。



深夜まで会社の仕事が及ぶ時は
ituneを使ってmacの内蔵スピーカーから
音楽を流しているのだが、
その時はたまたま息抜きにというか
もうやる気もなくなってきたので
ituneでスクラッチまがいのことをして
遊んでいると、同僚が近づいてきて
イライラするからやめてくれと言う。
確かに逆の立場ならわたしもイライラすると思うので
おとなしくやめることにしたのだが、それから続けて
音を楽しむから音楽なのだ、とも言う。
「自分が」楽しめない音は音楽ではない、というわけである。
いちいちこういうことに突っ込みを入れていたら
キリがないのだが、これはこれで聞き捨てならないので
さっきのスクラッチまがいのことは自分としては
そこそこ楽しんでいたのだがそれはどうなるのか、と問うてみる。
そこでいつもの免罪符の登場となり、問題はうやむやなまま
はなしは終わりに向かう。


ここまで書いてきて
どうやら「人それぞれ」という言葉は
他人に対する否定的理解として、
自分とは関係のないものとして線を引くために
使われているような気がしてきたのだが、
どうしても「ひと」は自分の感じる世界だけしかないように思いがちで
日々、他の「ひと」と暮らしながらも他の「ひと」と
感じる世界が違うかもしれないことには
あまり意識的ではないというか、「からだ」の感覚の性質上
これはこれでしょうがないのかもしれないが
わたしとしては、なぜ自分の感覚だけを
何の条件も留保もなく信じる事ができるのか、というか
なぜ自分の世界が自分の感覚だけでできていると思えるのか
という事の方が気になっていて、
そういうこともあって
はなしを通じて自分の考えを貫きたい、とかは全然思っていなくて
お互いの違う部分、もしくは矛盾点なんかを詳しく検討することで
新たに浮かび上がってくるものに期待しているのだが、
上記のはなしのように「人それぞれ」によって
強引に断ち切られてしまうのは忍びないというか
とてももったいないことだと思うし
ほんとうに全てが「人それぞれ」なのだとしたら
人と人は何の関係も持ち得ず、そこには
何の生産性もないことになってしまうが、
やはりそれだとつまらないので
なんとか「人それぞれ」を登場させることなく
はなしを進めていきたいとは思うのだが
こっちがそれを持ち出さなくとも
相手から持ち出されるともうどうしようもなくて、
そういう意味ではなしをする相手も選ばざるを得ないのが
とても残念で、いつもより少し多く物事を追い詰めて考えると
それだけで何か発見があったりして面白いということを
みんなが意識したら楽しいだろうとは思うが
もちろんわたしからそういうことを勧めるつもりはない、
ということもやはり「人それぞれ」の中に含まれてしまうのだろうが、
いままで書いてきたことは以前書いた
「好き/嫌い」の問題と繋がっているように思えて、
あらゆる物事を、自分の「好き/嫌い」すなわち
趣味嗜好のパターンに沿うかどうか、で選り分けて
それでお終いにするのはどうもつまらん、というか
腑に落ちないと思っていて、それがどういうことかというと
まずひとつに自分の「好き/嫌い」「趣味嗜好」には
どんな根拠があるのかいまひとつ掴めないところがあって
これはよく言うような、言葉にできない感覚的なもの、でも
変えようと思っても変えられない先天的な性質、でもなくて
そういう自分の中にあるようなものというよりは
外のあらゆる刺激から受ける影響によるところが大きくて
そういうものの集積が趣味嗜好で、さらにその刺激の集積から
自分の趣味嗜好に沿って重要だと思うものを選び出す、という
循環構造になっていて、さらに掴み所がなくなっていって、
趣味嗜好は自分を規定する法則ではあるかもしれないが
自分の本質(そんなものがあればの話だが)を写す鏡ではないということで、
これはずっと疑問に思ってはきたけれど
つい最近まで明確に意識できなかったことであり、
さらにふたつめはそのまさしく選り分ける、選択する、
ということ自体に潜む危険性に関することで
(ひとつめと似てはいるけれど)
選択する、ということには、その選び方がどうであれ一回選んでしまうと、
その選択の痕跡はずっと残ってしまうもので
それから先の選択にもずっと影響を及ぼしつづけることになって
それはまるで自分の意志というより
「選択」することそのものの意志のようにも思えてくるのだが、
これは自分以外の何かに選ばされているとかそういうことではなくて、
ただ単に、何かを選ぶと同時に何を選ぶかには関係なく
その何かはもうスタートしていて嫌でも背中を押されるかたちで
それについていくことになってそれがどうも気持ちが悪いというか、
かといって何も選ばなければ何も無いも同じで
その何も無いということにはひとは耐えられないようになっていて
ここでもまた押し出されるように何かを選ばざるを得ないのだが、
やっぱりこれにも気持ち悪さというか反発したい気持ちが起こってきて
そうなると、日常生活のあらゆる選択(飲み物を選ぶとか)にまで
影響が及んでむやみやたらと優柔不断になって困る。