地下鉄でイオン大日ショッピングセンターの中吊り広告を見た。
ショッピングセンターとその付近のミニチュア模型を
本城直季みたいにジオラマっぽく撮った写真が使われている。
文字情報の配置やなんかは以前あったどこかの保険会社の広告とほぼ同じ。
(こちらはおそらく本物の本城直季の写真だった。)


もしイオン大日ショッピングセンターのビジュアルを撮ったのが
本城直季なら、普段は現実の風景をジオラマ風に撮る写真家が
ジオラマジオラマっぽく撮らされるという、
変にねじれた事態になっていて面白いと思ったのだが
多分そんなことはありえない。


とか、この広告を見ていろいろ考えていたら、
アートディレクターとかプランナーとかデザイナーとかなんでもいいが
広告に関わる人間、ひいては広告そのものに対する
僕のある苛立ちの原因がぼんやりと見えてきた。


広告には、アートと呼んでも差し支えないほどのものもある反面
いくらお金をかけて表面的な出来を良くしても
クライアントを騙して作られたとしか思えない
制作者個人の「作る」という手の楽しみだけしかないようなものや
上記のショッピングセンターの広告のように
借り物の表現と借り物のイメージで
何の考えも中身もないものなど
醜悪としか呼べないものの方が実際は多い。


だけれどそういう醜悪なものが苛立ちの原因かというと
それだけではなくて、他に何がひっかかるかというと
誰かが誰かに何かを「より良い[イメージ]で」伝えたい
という広告の本質的な部分がどうも気に入らない。
伝えたい何かが本当に「良い」かどうかは一切関係が無く
「良く[見えれば]」それで目的は達成されている。
またイメージを操作するためにあらゆる手段が使われていて
そういうもろもろが小賢しいというか、ばかばかしいというか、
見ていて疲れてしまう。


もちろん伝えたい何かをまっすぐに伝えるべきだ、とかそういうことでもない。
そういう理想論の方が遥かにばかばかしいし、そんなことは不可能だ。
最終的に伝えられるのは「伝えたい何か」より良いか悪いかのどちらかしかない。
「伝えたい何か」とその表れとしてのなんらかの「かたち」は
お互いに影響しあっていて、それらがぴったり同じなんてことは
原理的にあり得ない。


そう考えると、広告は拠り所も実体もなく
ふわふわと浮遊するものでしかないから
見ていてなんだか不安になるのかもしれない。


僕自身、広告業界の片隅に何の因果か
紛れ込んでしまっているので知らず知らず
そういう影響を受けてしまっているようだ。
さらにその影響は僕の音楽活動を転換させた
一因でもあるだろう。
その辺はまた改めて考えてみることにする。