この10月で、誰かに雇われてなにがしかの労働をして
月に一度決まった日にいくらかのお金をもらうという生活も
3年目に入ったのだけれど
つくづく会社(もしくは労働)というものはあらゆる意味で奇妙なシステムで、
自分が何者であるかと何をすべきかを超越的な立場から与える代わりに
システムのパーツになりシステムに貢献することを要求するようになっていて、
まず最初にそういう意味で労働というシステムと個々の人間の利害は一致していて
生活する為のお金を得る、ということはあくまで副次的なものでしかなくて
どう考えても、個々の人間が「労働」の与える役割に従うその理由は
内容はどうであれその役割というもの自体を得るためだとしか思えないのだが
やはり自分自身に照らし合わせて考えてみても
いまの仕事をするための根本の理由なんてどこにもなくて
反対に、その理由と動機を「役割」を得るという事以外に
自発的に強く持っているという人もいるし
誰か他の人のために仕事をしているという人もいるけれど
それはどう見ても一種の思い込みだとしか思えなくて
かといって別にそれを批判したいわけではなくて
そうでもしないといつまでも前に進まないだろうし
人間というものがそういう風にできているんだろうが、
「労働」から与えられた役割によって
自分のアイデンティティが保証されたように勘違いして
役割と自分を同化させてしまって、労働というシステムの中にしか存在しない
役割としての自分を守る(責任を回避する)ことにしか頭を使わない人ばかりで
その、ほめられたいし怒られたくないという姿勢が非常に不愉快であり、
かつ自分にも当てはまるということが妙に面白いというか
人間そのものを見ているような不思議な気分で
いつまでこんな奇妙で馬鹿馬鹿しいベタベタした
下らない支えあいみたいなことをするのかとも思うが
結局何を言いたいのかというと
3年間の会社勤めで得たものは
人間は大なり小なりなんらかの群れを作って
その群れが何であるか、群れで何をするか、とは別に
群れを必要とし群れから必要とされることそのものを
欲しているのではないか、ということと
人間にまつわるあらゆる物事の根本には
どうにかしてこの世界に順応したいという欲望というか
自分では「自分」を決められないから
社会というひとつのシステム、ひとつの世界に
「自分」を決めて欲しいという欲望というか
なんだかそういうものがあるような気がすることで、
そういうことをいま考えていたらふと気付いたのだが
ここ何年かの自分の傾向として
物事の枝葉の部分を切り捨てるようなところがあって
どんどん切り捨てていったら幹なんてないことに気付いて
結局は何にも残らないという事が多々あって、
だからどうということもないが、
世界はあらゆる階層の枝葉でできているということで
ある枝葉は別の枝葉の幹に相当する働きをしていたりして
見極めが難しいのだが、結局は枝葉だけしかなくて
そこからさらに進んでいく方向は
枝葉を枝葉と割り切って枝葉を遊ぶのか
それともそもそも存在しない幹を探すのか
大きく分けてふたつあると思うのだが
そのどちらを選ぶのも気が乗らないというのが正直な気持ちで、
そうしていると日常生活のあらゆる選択(飲み物を選ぶとか)にまで
影響が及んでむやみやたらと優柔不断になって困る。