今日は赤レンガへスイスの演奏家を観に行こうかと思っていたのだが
寝過ごしたため、夕方から梅田へ出て紀伊国屋タワレコを巡回して
赤レンガ帰りの川口君と合流する。


最近川口君はメトロノームを使ったフィールド録音をやっているらしく
なかなか極端な試みで非常に面白そうだ。
また、そのこともあって
僕の野外コンピューターソロに興味を持っていた。


どちらも環境音というキーワードで共通しているが
意図しているところのベクトルは少し趣きが異なる。
川口君の場合、おそらく、ある環境/状況の中に
違和感としてのメトロノームの音を置くことで
環境の聴こえ方がどう変わるか、ということだと思う。
(ひょっとしたらその逆かもしれないが)
そう考えると唯一の環境への干渉が
人間による「演奏としての音」ではなく
メトロノームによる「ただの合図としての音」である
必然性も見えてくる。
僕の場合は、いまのところ演奏のつもりでなくとも
音の操作はしているし、録音の場所によっては
環境音と演奏の対比のようになっていることもあるけれど
大枠としてはそういうことではなくて
野外にあるいろいろな音の中で自分も音を出してみることで
いわゆる「演奏の音」、「音楽としての音」から
離れる事ができないかと思ってやっている。


野外で音を出していても他の音と混じるということもあるし
なによりそもそも演奏としての場ではないので
当たり前のことだが誰も僕が出している音なんか聴いてはいない。
これは場所によっては文脈上どんな音でも
音楽になってしまうこと(音楽として聴いてしまうこと)
とは逆の状況で
例えば「演奏としての場」で「演奏」として石と石をぶつけるのと
「演奏としての場」ではない公園で石と石をぶつけることの違いと
似たようなものだと思う。
前者だと意識はすぐに石による音にいくが
後者ではおそらく音よりもその行為自体にいくだろう。
また、野外にある音は「音」を出すために出された音ではなくて
何か他の目的があってそれに伴って
出てしまう音である場合がほとんどで
そういう意味でも野外(というより「演奏としての場」以外すべて)
というのはそのままでは音が音楽にならないという
特性を持っていると思う。


そういう状況で音を出すことで、自分の音も音楽ではなくて
ただの音としての佇まいができないか考えながらやっている。
もちろん単純に「目的は別にあるけど出てしまう音」を
やってしまえば済むことなのだが、それだとなにか面白くないので
ややこしい上に回りくどく、かつ矛盾しているにも関わらず
ずっと考えつづけている。


テープレコーダーによる粗い録音も分離が悪く
全体がごちゃっと混じるので
上記のような意味でとても良いし
単純に質感としても気に入っている。

追記


上記のような「つもり」で
野外(というより「演奏としての場」以外すべて)で
録音しているので
テープレコーダーに入ってくる音はどうでもいい、というか
そういうひとつの文脈だと捉えているので
別に音があってもなくても場所はどこでもよい。
なので今後は電車の中、百貨店の中、
茶店の中、空港の中などでもやってみようと思う。


フィールドレコーディングによくある
音のイメージを聴くようなものは
自分でやる意味がないし、
子供の遊ぶ声とか雨の音とか
あるイメージを喚起させるために
そういう音を選ぶようなあざといことは
どうもできない。
もちろん音自体には罪はなくて
それが聴かれる文脈の設定の仕方が
あまりにひどい(というかそういうことに無頓着)
ものが多すぎる。


フィールドレコーディングに限らず
イメージを聴く音楽、意地の悪い言い方をすれば
その音楽に聴くものがそれ以外ないような音楽
にその自覚があるものは全くといっていいほどない。
「イメージを喚起させる〜」とかそういう意図のあるものは
たくさんあるだろうが、大抵はイメージに浸る心地よさだけで
音とイメージについて考えてはいないだろう。
またはイメージを利用しているだけだということに
気付いてすらいないのかもしれない。


そう考えるとなんだか音楽も
参考資料(レコード屋に行くとたくさん売っている)
を使って自分のイメージに合ったものを抜き出して
それらを組み合わせることで
すぐにできるもののような気がしてくる。
そしてこのことは商業デザインの仕組みと全く同じで
イメージを的確に表現した「それっぽい」ものなら
それですべてOKである。