自分の、タイムラインじゃないか、フィードというのか、ともかく自分が目にする日々流れる投稿にもう少しいろんな振れ幅が欲しいと思ったら、いろんな方向に友達を増やすか、いろんな方向を持つ人と友達になるか、しないといけなくて、そういう意味でフェイスブックは現実と同じだなあと思った。


ツイッターみたいに勝手にフォロー(フィード購読)したりすればいいけど、それはあまり意味ないように思っていて、フェイスブックという場においては、実際に見知っている人の投稿ということに意味がある気がする。自分にない意見なり視点なりが見知らぬ人からやってきても反発したりしてしまいがちだけれど(逆に、見知らぬ人でも尊敬している(有名)人だったりしたら鵜呑みにしたりとか)、見知っている人が言うなら受け止めてみようという気になる。まあならない人もいると思うし、それも自然。相手が誰であろうが、自分とは違うものはノイズでしかない、というのも、それはそうだ。だから、もっとノイズを!ノイズを受け止めよ!ノイズは楽しい!と言う気にもなれないし、言っても特に意味ない。結局、自分にない意見なり視点を受け止めやすいのは、対面で慎重にやりとりを重ねる場合しかないのかもしれないし、誰もがそうした方がいいということもない。


最初の「自分が目にする日々流れる投稿にもう少しいろんな振れ幅が欲しいと思ったら」について、いろんな方向に友達をつくる、いろんな方向を持つ人と友達になる、の他にもうひとつ、いまの友達の中にあるいろんな方向を引き出す、というのがあるのだが、これはフェイスブックではできないことが分かった。どうしてもそれぞれの思う「みんな」の空気に縛られるので、それぞれの中にあるはずのいろんな方向は出てこない。ある方向についてのそれぞれのバリエーションが出てくるくらい。それがいかんということではなくて、「ついそうしてしまう雰囲気」は、どういうメカニズムでつくられるのかが気になる。気になると言いつつそんなに気にもなっていなくて、フェイスブックで「友達」同士になっている人たちが、どっかの場所かなんかで実際に一同に会して、お互いの声が全員に聞こえるようになっていたら、「より多くの人の関心に合っているとより多くの人に思われていること」しか話されなくなるであろうことはなんとなく分かる。そういうもんというか。