自分と誰かとの違いを尊重することで、(”誰か”から)誰かと自分との違いも尊重してもらえる可能性が高まるのかもしれない、そしたら「寛容」という言葉で尊重を説く必要がなくなるのかしら、と思わなくもない。寛容といえば、『寛容という言葉にひそむ、その規則的で生産的な権力作用を徹底的に解剖する』という触れ込みの、ウェンディ・ブラウン「寛容の帝国」という本を持っているけれど、もちろんまだ読んで(読めて)いない。
<追記する>
なに言ってるかいまいちよく分からないけれど、「寛容」っていう時なんとなく「ノブレス・オブリージュ(位高ければ徳高きを要す)」の嫌な感じというか、”尊重”というより一方的に”許す”感じがする。尊重という言葉にも嫌な感じはあって、「嫌う」ことを許さない感じというか。嫌いつつ尊重することも可能なわけで(嫌いだけど、そうあることは理解する、のような)、”嫌うこと”も許容しないと、あらゆるすべてを好きにならなければならないという強迫観念のようなものに責め立てられることになってしまう。まあそれもこれも、「尊重すること」と「好きであること」と「認めること」と「理解すること」がすべてごっちゃになっているからだとも言える。認めなくても尊重できそうではあるし、「理解」に至っては寛容とか尊重とはちょっと離した方がよさそうでもある。理解ってなかなかに複雑な現象で、こちらが理解したと思っても相手が理解されたと思わなければ意味がなく、こちらが理解したと思っていなくても相手が理解されたと思えば意味があるが、そういうような現象なので、尊重とはいったん離した方がよいと思う。あなたのことは理解しているから!と言えば言うほど理解していないっぽい。ほいで、最初の『自分と誰かとの違いを尊重することで、(”誰か”から)誰かと自分との違いも尊重してもらえる可能性が高まるのかもしれない、そしたら「寛容」という言葉で尊重を説く必要がなくなるのかしら』というのは、まず自分から相手と自分との違いを尊重すれば、自分も自分と相手との違いを尊重される(かもよ)というような損得で尊重を説く方が、規範として説くよりいいかもよ、という思いつきだが、そんなこと私が言うまでもなく自己啓発本でもぱらっとでもめくればいくらでも書いてあるものと思われる。