なんかもう前にも散々書いたような気がするが、いまって、いまに限らんけど、なにをやるにしても「それは誰にとってどのような意味があるのか」をはっきり説明せよと迫られて(あるいはその圧力・規範を内面化しちゃって自分でもそう思ってしまったり)、そしてその”誰”は自分以外の人間でないといけないということになっていて、これはあまりよくないんではないか。まず、「自分による自分のためのなにか」がいけない理由はない。すくなくとも自分にとって意味があるのはいいことだろう。次に、単純な「他者志向」はあぶない。消費者が、顧客が、お客様が、とか言ってる社会における「他者志向」の他者って、いま目の前にいるあなた、ではなく、自分のやること・自分の助けを必要としてくれる誰か(なら誰でもいい)、ってことになってしまいがち。最悪なのは、誰かを助けたいがために、助けられるべき誰かを生み出してしまうこと。これは、最悪なのに、よくあること。最後に、自分の行動の説明責任みたいなのをとやかく言いすぎると、誰もなにもしなくなるんじゃないか。だって、いちいち、自分はこういう理由でもってこういう行動を起こしました、って説明しないといけないのって面倒臭すぎるし、行動の理由として、誰の目にも明らかな「正しさ」や「整合性」みたいなのがないといけないというのもうざったすぎる。行動の意味や質がどうとか言いたいのも分かるけど、そう言うことで結局のところ足の引っ張り合いにしかなってないとするなら、それはどうなんだろと。あと、フェイスブックの右っかわにでてくる広告をひたすら非表示にしていると、しばらく出てこなくなって、さらにしばらくするとほとぼりが冷めたということなのか、また出てくるようになる。しかし非表示にしたからといって、「この広告が表示されないよう努めます。」というだけなので、また同じのが出てくる場合もある。あと非表示にするためには理由を選ばないといけないので、もっぱら「自分の信念に反している」か「性的に露骨な内容」にしている。