ツタヤをやってるカルチュア・コンビニエンス・クラブに運営委託する、いま話題の武雄市図書館にスタバができるらしい。http://www.ccc.co.jp/company/news/2012/20120814_003421.html なんというか、CCCに委託しようと思ったくらいだから、スタバ出店もなんだか納得で、なんというかな、自分たちが使うものを自分たちでつくろうという雰囲気がないのが気になる。いや、知らないだけで、そういう雰囲気はあるのかもしれないし、私は嬉野市民なので武雄市民ではないし、なによりスタバできたら行くだろうけど(めちゃくちゃ混むだろうから行かないかもしれないけど)、なんか違うような。スタバはスタバでいいけど、別にスタバでなくてもいいわけで。地元の人たちでスタバ並(以上でもいいし)のセンスと味のカフェをやればいいと思うけど。いやまあたしかにそれには時間と費用さらには人材がいなくてなかなか進まないから、お金でスタバのパッケージされたサービスをまるごと買ってくる方が早いしちゃんとしてるし確実だしというのはわかる。でもこういうやり方だと、都会的なプロのサービスがおれらのまちにもやってくる!という具合で、自分たちがどんどん「お客様としての市民様」「消費者様としての市民様」になってしまって、それはどうなのか。そういう状態になるのがいちばんまずいんじゃないのか。別にみんながみんな「意識の高い」市民になればいいとも思わないし、そもそもそういう「意識の高い/低い」の区別って最悪で、意識のどうこうとは関係なく、みんなが自分の興味や労力やお金や時間などのもろもろ資源に応じて、好きなようにじぶんたちのまち=生きる環境に関われる、というのが理想だろうなあ。はなしがずれたが、自分たちが図書館でなにをしたいかを積み上げてつくるんじゃなくて、プロの仕事をただ買うだけになってしまうのはあまりよくないような・・。これって、政治や行政はわからん、政治は政治家に、行政は官僚やお役所の人に、っていうのと同じなんじゃ。ずっとまるごとおまかせ=委託してきたから、中身がよく分からず不信になるわけで、お互い協力できるところは協力してやればいい。餅は餅屋とは言うけれど、どんな餅を食べたいかみんなで相談して自分たちでつくることで、自分たちの力・自分たちなりのセンスもついてくると思うけども。ただモノやサービスを買ってるだけではセンスも自分でやってみる力もつかないんじゃないか。あ、それとこのまえ武雄図書館に行ってみたけれど「選書委員による推薦本」コーナーというのがあり、選んだ人が紹介文を書いていた。しぶい本を選んでいる人が何人かいて、シルビオ・ゲゼルについての本とか、菊谷和宏「「社会」の誕生」とか、広井良典の本とか、内田百聞の本とか。