「忙しい」ことはいいことかどうか。忙しいにもいろいろあって、忙しいことそれ自体が自己目的化した忙しさもあるし、自分でコントロールできない忙しさもある。仕事量を自分でコントロールできないために生じる忙しさとは、つまり、仕事を断れないために生じる忙しさだと思う。来たら来ただけすべて処理しないといけないという。こういう忙しさは世の中にたくさんある。ともかく増え続ける仕事量をどのように処理するかが問題。組織であれば組織力で処理できる。とか、めちゃざっくり書いているが、分業あるいは人海戦術あるいは各種の工夫など、組織内部の人的資源による生産力をいろいろに使えばどうにかはなる(もちろんならないこともある)。しかし個人あるいはごく少人数の場合、人的資源による生産力は限られているので、結局のところ仕事をする時間を延ばすことでしか仕事量の増大を処理できない。なんちゅうか、いくら細かい工夫をしようとも人間ひとりの生産力は有限であるため、時間当たりの生産力も有限だ。それに加えて、忙しいとしんどいので生産力は落ちる。しかしどんどん仕事量は増える、というスパイラルにどう立ち向かうか。というときに、睡眠時間を減らすというのは最悪の手段であるということを主張したいのだけれども、だからといってそれ以外の手段としては、人的資源を増やす=人を雇う、というような、なんらかの投資、生産力を上げるための、をしないといけない。それか、どこかで仕事を断るか。しかし、仕事を断ることのできる職種というのは限られていて、ある程度以上に換えのきかない仕事でないとそれはできない。その人にしかできないことがある程度はある仕事。専門的な仕事もある程度は換えがきかないだろう。逆に、だれに頼んでもそう変わらない仕事の場合、換えがきくので一回断るともう仕事が来なくなる。なので、どれだけ忙しくとも、仕事を断ることができず、その仕事量を仕事をする時間を延ばすことで処理するという循環はなかなか変わらない。そういう職場はもう無数にあるだろう。しかし、換えがきく仕事であっても、自分でコントロールできる方がよいと思われるので、なぜなら「しんどい」からで、ともかく私は「しんどい」ことはいいことだと思わない。冒頭に書いた、忙しいことそれ自体が自己目的化した忙しさっていうのは、あー忙しい忙しい!やばい!緊急!みたいに、”困難に立ち向かうこと”に喜びを見いだす忙しさ。このタイプの忙しさは、忙しくなくなると困難に立ち向かえなくなるため、まったく忙しさが解消されることがない。ない、というか、それは求められていない。忙しい=困難であることが重要なので、困難が解消されることは求められない。そういう欲求があるのは別にいいと思うのだけれど、私は求めていないので、もちっと自分でコントロールできる方がいい。いまぼんやり思うのは、「規模の経済」に頼らない「仕事」をもっと発明しないといけないのではないかということ。規模の経済っていうのは、たぶん、規模が大きくなるからコストが下がって儲けもでる、みたいなことなのだけれど、規模を大きくするためにはそこに関わる人数も多ければ多いほどいいし、そのネットワークも巨大であればあるほどいい。たくさんの人々がバトンを渡すように仕事がまわっていく方がいい。しかし、巨大なネットワークのなかのバトン渡しとなると、自分で決めることのできる範囲がどんどん狭くなる。ネットワークそれ自体の要請することをいかに効率よくこなすかが問題になってくるので、さきほどのたとえでいうなら、「いつ」「どこから」「どのように」バトンが来るかは分からない上に、バトンを次の人に渡すのは早ければ早いほどいい、ということになり、どこにも「自分のペース」というものはなくなってしまう。これは、巨大なネットワークを使った仕事の仕方=規模の経済のデメリットだと思うので、なんかいい解決方法を考えないとまずいんじゃねえかなと思う。そしてなにより規模の経済に依存するのをやめられる人はとっととやめた方がいい。けれども、追記しておくと、換えのきく仕事内容だからこそ自分ならではの付加価値をつけるのだ!とか、あるいは、換えのきかない仕事をするのだ!換えのきかない人材になるのだ!っていうのもわかるけど、なかなかなあと思っていて、換えがきくからこそ仕事を分け合う可能性が出てくるのではないかなと思わなくもない。かつてのフリーターや派遣っていうのには、そういう側面があったのではないか。いまはもうないかもしれんけど。あとは仕事を分け合うのに抵抗があるとすれば、たぶん大きな理由として、「ひとつの自分の仕事」に「ただひとりの自分であること(あるいは自己同一性=アイデンティティ?)」を対応させているからではないかと思われる。そしてこれは、「ひとつ」を「複数」にすれば解決することではある。けど、むずかしいのかもしれない。習慣になってるから。