おととい書いたゲーム化がどうちゃらというのは、どちらかといえば、あらゆる物事の「イベント化」についてのはなしで、そんなにいわゆるゲーミフィケーションとは関係がないが、ないこともない。いま思えば、なにかしらのささいな物事をイベント化する際に、人々の動機を発生させ、さらに動機を持続させるために、ゲーム化が行われる、という意味合いで書いていたようなので、その意味ではばっちりゲーミフィケーションと関係がある。ちょうど昨日、神戸空港で乗り換えを待っているときに、NHKのクローズアップ現代ゲーミフィケーションについてやってて、しかしすぐに搭乗時間になったのでちゃんとは見てないが、安全運転とか会社での社員のモチベーションの喚起、みたいなことに使われている事例があるようで、ちらっと見た限りだけれど、ひとことで言うなら、けっこうサムい。ゲームのルール・世界観・仕組みやなんかを工夫すればどうにかなるのかどうかはわからないが、ともかくなんかやっててアホらしくなるんじゃないかと思った。ほいで、もちろんゲーミフィケーション的なことっていまに始まったことではなくて、思いつくのでいえば、小学校の時に、毎朝校庭のトラックを走らされる時期があって、マラソン大会のある冬だったと思うが、マラソンカードみたいなのをつくって「正」の字で走った周の数をカウントする。○○kmコースとか、距離ごとにコースが分かれていて達成するとまた別のコースにチャレンジする。ほいで、教室の後ろとかに張り出された表みたいなのに、誰がどれだけ達成したかみたいなのが発表されたりしてたような気がするが、これに関しては定かではない。もちろんこれは強制ではないので、やらないやつはやらないし、まんまと乗せられて毎朝早くに学校に来て走ったりとやたら一生懸命やるやつもいるが、やってくうちに「走った周の数」を集めるゲームのようになり、そうなると今度は「周数」を取引するようになり、「周数」が貨幣のように流通するようになっていった。自分で走ってないのに、人から周数をもらって自分のカードに書き込む。なにかしてあげる代わりにもらったりしてたかどうかは思い出せないけど、もちろんそういうこともあっただろう。ほいでさらに、走ったのかどうか怪しいのにやたらと人に周数をあげるやつとかでてくる。こうなると、いったいなんのためにやっているのかさっぱり分からない。子どもたちを走らせるために導入された、マラソンカードに周数をカウントする仕組みが、いつのまにやら周数を集めることが自己目的化し、さらには走らずに周数だけが取引されるようになるという、なにか産業から金融へ、みたいなことも感じさせる進化を遂げていた。ゲームの論理が現実の行動と結びつくとき、こういう「本末転倒」が起こりやすいのかもしれない。ゲームの論理がゲーム内で完結していれば、そんなことは起きない。あと最初らへんに、ひとことで言うならけっこうサムいと書いたが、ゲーム化された行動って、当たり前のことだが、ゲームのルールにのらないといけないわけで、さらにいえば盛り上がらないといけないわけで、なんかその「のれるやろ?」「盛り上がるやろ?」「楽しいやろ?」みたいに、控えめにだが確実に強制されている感じがどうもきもちわるい。