アイチューンズストアからメール来んなあ、たぶんこのまま放置だな、と思っていたところ、メールが来たが、件のEPの2曲を再ダウンロードできるようにしましたので、間違っているかどうか確認しておくれ、とのことで、まあ前と変わってないので、間違っています。ここを参考にしたら違っているのがわかるよと、youtubeディスクユニオンのアドレスをはっつけて返信。がんばってどうにかしておくれ。レーベルからデータを再度もらいなおすかしないといけないと思うけど。昨日はドーナツを買いにチャリで心斎橋に。往復1時間半くらいか?件のドーナツ屋のすぐ近くにアセンスがあるのでちらっと見てみる。ドーナツ屋はなんだったか、クリスピーなんちゃらという。20分待ちと書いてあって、列に加わったところ、係員のお姉さんにこちらであらかじめ用意したボックスをお買い上げのお客様は待たずに買うことができるとことなので、そうする。いまから洗濯物を干しに行く。この前ふと思ったが、自己啓発ってレベル上げだよね。レベル上げってレベルを上げることで達成できる目的があるとはいえ、レベル上げ自体が目的にもなりうる。ドラクエとかでゲームはすでにクリアしたにもかかわらずレベル99まで上げたい、とかはそう。嬉しいのよね、レベル上げって。良い変化であるわけだから。まあゲーム内に限ることだから、特にリスクもリターンもなく、それだけに安心なんだろう。うーん、より良く、より善く、みたいな衝動は、人間にもともと備わっているのかどうか。どっか歴史の途中で発生してるような気もするが。ダメでもいいじゃん、というのは、ダメじゃない=よりよい状態をイメージできないと言えない。でないと今の状態をダメだと判断できないんじゃないか。あと、ベーシックインカムの話で難しいのは、ベーシックインカムと「働かざる者、食うべからず」とをどう折り合いをつけるかで、折り合いつかなくても、ベーシックインカム論のなかでそれをどう捉えるかなんだろうけれど、といっても、いまのところ、いくつかのベーシックインカム関係の本を読んでみたところ、ちょっとやはりきつい気がする。「働く」の概念をまず丁寧にみんなで共有しないとむずかしいかと思う。いま「働く」っていった場合、基本的にはすべて「賃仕事」を指すわけで、もっと狭く言えば「働く」=「就職」(正規、非正規かんけいなく)、ということを指すわけで、まあこれはちょっと狭い解釈というか、賃金を目的に働く、すなわち金銭に依存する生存のために働く、ということになるのか。ただ生きているだけでお金を使わざるをえない、という状態になっているからこうなるのかとは思う。市場を介さないと何も手に入らないというか。あとまあ、そのような「働く」モデルが先にある状態で「なにをしようか」と考えても、何も思い浮かばない気がするけれど。個人的な、もしくは身の回りの問題や困り事、または、顔の見える誰かの問題や困り事からの発想というものが失われていくのではないかしら。私たちは、小学校のころから、言われた事を素直にやることに慣れているので、まあ「誰かに言われてやる」のが全てになっているわけだけれど、言われなくても自分で考えてなんかやれ、というのがとても難しい。そもそも「誰かに言われてやる」状態が小学校の頃から普通だったわけだから。そして、宿題や部活のないときは、自由時間としてゲームをしたり外で遊んだりする。教育というよりも、社会的な通念や規範の問題なんだろうけれど。「誰かに言われてやること」=苦役と自由時間という対で物事を把握しているから、そのまま会社・仕事=苦役と自由時間というモデルで生きてしまう(ちなみに、その引き裂かれを解消するために導入されたのが、仕事が趣味(自由時間)というモデルかなと思う。仕事の方にすべてを還元するモデル)。とはいっても、だからといって、そもそも今は、ただ生きているだけでお金を使わざるをえない(自給自足も意外に難しい)、という状態なので、勤めない、というのも難しいし、そうなると、勤めていないあいだくらいは好きにゲームでも睡眠でも買い物でもなんでもさせてくれ!となるのは当たり前のことかと思う。もしベーシックインカムが導入されれば、働くことにおける「金銭に依存する生存のために働く」という側面が弱まるわけだけれど、その場合、人々が働かなくなるんじゃないか、という懸念ももちろんあるが、人々が何をしたらいいか分からなくなるんじゃないか、というのもある気がする。いわゆる定年したお父さん状態。会社・賃仕事という経路でしか社会と関わってこなかったら、そうなるのは当たり前だし、それはお父さんだけの問題ではないよなー。すくなくとも私はいますでによく分からん。いま思い出したので書いておくけれども、山本握微さんが、文化系左翼と相性が悪いやったか、仲良くなれない、みたいなことを言っているのは、なんというか、文化系左翼と呼ばれる属性が具体的にどういうのかあまりイメージはできないが、おそらくは、社会的弱者をどうにかしよう、ないしは関心を持って行動をしようという人たちは、自分が社会的弱者では「ない」こと、むしろ「強者」ですらあることに無頓着だったりするのが気になっているのかなと思う。私もそれは気になるが。