滝口範子「行動主義 レム・コールハースドキュメント」はなんだかんだで昨日の風呂にて読了。アマゾンのカスタマーレヴューには辛めの評もあったけれど、面白いと思う。本にまとめるスタイルがどこか塩見允枝子「フルクサスとは何か」と似ている。ある出来事に関するもろもろを特定の個人の視点で捉える、という意味で。なので、出たときには、コールハースかーあんまり興味もないな、と思ったユリイカコールハース特集を梅田のブックファーストで。a+uの増刊号のコールハース特集を買おうかとも思ったが、なかった。コールハースの建築も気にはなるがそれよりも、コールハースの、人間とか出来事の組織の仕方が気になる。いま気づいたけれど、ペットボトルの水「いろはす」って520mlなんだな。だんだん本を読む時間がなくなりそうな予感があるしそもそも読めてない本がけっこうあるのだけれども、ブックオフオンラインにて、アンドレ・ゴルツ「労働のメタモルフォーズ 働くことの意味を求めて 経済的理性批判」、桂枝雀「らくごDE枝雀」、西村佳哲「自分の仕事をつくる」、原田曜平「近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」」。あとなぜか荷物のなかに、ブックオフオンラインマークの入った2cm角の箱に丸いガムが入ったフーセンガムが、入っていた。FLOATの図書室のもろもろに関わっていながら、まだ本を借りてなくて、なぜなら私は風呂で本を読むのがいちばん集中できるからで、そうなると誰かの本を風呂で読むっていうのはちょっとアレなので、なるべく本は買って読む。ひょんなきっかけから、大友良英さんのブログを見てみたところ、

結局美術にしろ、メディアアートにしろ、音楽の世界にしろ、作品を言葉で説明する人とか、プロモーションをしてる人だけが注目されてないか? 

本当ならキュレーターなり評論家なり、アーカイブをつくるべき研究者が、そうした自分から言葉で説明しない人たちの作品をひとつひとつ丁寧に検証すべきなのに、現実には、言葉を発している人の言葉を受けてるだけになってないか?<中略>言葉だけのやりとりで、美術なり音楽なりを解釈してるようなレベルで、どうするんだよっていう、はっきりとオレからの挑発なんだけどね。

ということばがあり(「シンポってなんなんだ?」http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/20100328)、これはなんというか、私たち観る側ないしは観る側としての私たちへのお叱りでもあると思うのだけれど、作品を言葉で説明する、プロモーションをする、っていうのは、インターネットの世界でいうSEO(Search Engine Optimization)対策のようなもので、人々の検索にひっかかりやすくすることなんだろうなと思う。で、そういう検索にひっかかりやすいものだけを相手にしていていいのか?そもそも検索で探すっていうのもどうなのか?情報だけを相手にしてないか?というようなことなのかしらと思うが、たぶんすこし違う。いま書いたのは評論家なり研究者なりの専門家「以外」の観る側のことに寄っている。あと、すこし思うのは、アーカイブをつくる人がいないんじゃないかということで、みんなアーカイブされる側に殺到していて、自分のことばかりで他人のことを見る余裕がない。アーカイブされる側ともする側ともあまり関係ないふつうの人が、質を無視したアーカイブをぼこぼこつくっていけばいいんじゃないかしらとも思うが、アーカイブされる側ともする側ともあまり関係ないふつうの観る側の人は、おそらく、自分の経験を「自分から言葉で説明しない」。どこまで人間が言語的か、という問題が出てくるような気がするけれど、すくなくとも、言語/非言語という枠組みではなんにも分からないというのは分かる。あとは、言葉によるものであれ感覚的なものであれ、「考える」作業っていうのは、膨大に必要だと思う。で、膨大に考えるためには、たぶん複数の視点が必要になる。単一の視点だとすぐに結論が出てしまう。「行動主義 レム・コールハースドキュメント」の第三部、コールハースへのインタビューのなかで特に面白かったところ。

ヨーロッパや地方行政のブランディングの仕事をしているわけですが、OMA自体のブランディングも意識的にやっているのですか。

 
ブランディングなんて言ったことはないよ。ブランディングというのは大嫌いだ。最もバカげたコンセプトだと思う。ブランディングというのは、アイデンティティーを特定の方法で位置付けるための知識が存在するという前提に立っている。けれど、そんな知識はないんだ。だから、OMA自体がそんなブランディングを試みているということになると、かなり皮肉な状況になってしまう。アンチ・ブランディングの仕事をした方がいいくらいだ。