散髪。姉ちゃんが切ってもらっている美容師さんのところに行っている。もう5年くらいか。1000円床屋でもいいのだけれど、そうなると「まるごとなにもかもおまかせ」ができない気がする。髪型をどうしたいか、と問われても、どのようなイメージも沸かない。夏は短く、冬は長く、していると、寒暖に対応できてよい、くらい。最近はずっと短いけど。まるごとなにもかもおまかせだと、ちょっと長めでところどころにメッシュが入ったり、めちゃくちゃ短くなったり、前髪の右側だけが長かったり、する。まるごとおまかせ、といっても、髪質や頭のかたちによってはできない髪形もあるだろうし、頭の形が悪いので坊主は似合わなかったりするし、前回の髪型との関係もあったりするので、その都度ゼロから髪型が生み出されているわけでもない。けど、今日おもったのは、美容室であるからにはそんなに安くない金額を払うわけだけれど、これは、私の髪(型)でなにかやってくれませんかとオファーをしてギャラを払ってやってもらうのと同じなのかなと。まず技術の点で信頼があるのと、相談しながらおまかせできる信頼があるから、オファーできるのだと思う。西北の無印で、くつしたとくつと白いシャツと梅+玄米黒酢ドリンクとマグカップ。あ、透明付箋も。ジュンク堂で、山岸俊男「心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想」と土井隆義「キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像」。岩波書店の新刊リストを見ていたら気になったオットー「聖なるもの」をすこし立ち読み。

合理的に発達した宗教の核心には,非合理的なもの──感情や予覚による圧倒的な「聖なるもの」の経験が存在する.オットー(1869−1937)はその本質を「ヌミノーゼ」と名づけ,現象学的・宗教哲学的考察を展開する.キリスト教神学のみならず哲学・比較宗教学にも多大な影響を与えた,20世紀を代表する宗教学の基礎的名著.(新訳)

とのこと。「芸術におけるヌミノーゼなものの表現手段」という箇所があって、ちら見。崇高がそれに当たるみたいなことか?ヌミノースについてウィキペディアより。

オットーは『聖なるもの』(1917年、邦訳 岩波文庫)の中で、真・善・美の理想を求めるカント的理性宗教に対して、非合理的かつ直接的な経験こそが「聖なるもの」であると述べた。これを、ラテン語で「神威」を意味する"numen"から取った"das Numinose"という造語で規定した。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものおよび、先験的なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。 ヌミノース体験の特徴として以下のような点が挙げられる。

●宗教体験により原始的な感情が沸き立つものである
●概念の把握が不可能で説明し難い
●畏怖と魅惑という相反する感情を伴い、身体の内面から特殊な感情が沸き起こるものである
●絶対他者の存在を感じさせ、人間が本来備えるプリミティブな感覚により直感するものである

あと、前髪が長くなるのは左側だった。長くなるときは左側だ。右側が短い。つむじとか髪の流れが関係あるのだろうか。SANAA設計「ロレックス・ラーニング・センター」の動画をロレックス・ラーニング・センターのウェブサイトで見た。このBGMはなんやねん!?と関西人ではないけれど関西弁で思った。地形のような建築。敷地ぜんたいの写真を見て思ったが、ほぼ真四角の敷地に真四角の建物があってその内部でぐにゃぐにゃしている。外までぐにゃぐにゃしなかったのだな。この敷地じたいがグリッドでつくられている一帯の一部だからかしら。SANAAのふたりへのインタビューもすこしあり、妹島和世さんが英語でしゃべっていたが、コンペが始まって言ったのは、このスペースを学生に限らずすべての市民に開かれたものにしたいということです。私たちは「公園」のイメージを得ました。交流を始める機会のための空間にしたいのです。というようなことを言っていた。公園的な空間をつくる、というときに、実際に上下左右のうねりで空間をつくってしまう、というシンプルだけれど、おかしなアイデアが面白いなあと思う。だだっぴろいひとつの部屋をうねっと隆起させて、そのあとぼこぼこ穴を開ける、という操作で、「部屋と廊下」というルールがない空間になってる・・。上下の動きでうまいこと空間を区切ってるというか。模型の写真を見てそこを歩いている気になってみる。これはほんとに公園っぽいかもしれない。建築っていうものの面白いところは、ふつうの意味での文字通りの「身体性」があるところなんだよなあとつくづく思う。たとえば、音楽とか絵画などでいう身体性は比喩に留まる。観念的な意味での、というか。たぶん、ダンスもそうだ。身体性があるのは基本的に演者だけで、ダンサーと観客の身体性がリンクするのは観念的・想像的な世界でのはなしになるような。FLOATを公園みたくみんなが使える空間にしたい!と蛇谷さんが言っていて、いろいろはなしをしていたのだけれど、空間の可能性としては文字通りの公園みたくなる可能性があるんじゃないかなとは思う。FLOATの1階の川側と道側のシャッターを開ければ半屋外のようになるし。問題は人の出入り。通り抜けできたらかなりいいと思うけど、道側から川側へ通り抜ける動機がいまのところない。どのような場合においても、意味や象徴としての「公園」じゃなくて、空間の性質や機能として「公園」の方が面白いというか、それでないとあまり意味はない。意味だけなら「公園」って看板を置けば済むから。開放しています。ご自由にどうぞ。という文字があればそれですむ。しかし実際に人が使うかどうかはそれとは別のはなし。誘い方の問題か。