4月は、村山政二朗・江崎將史・木下和重「公開レコーディング」、Ftarri Festival京都、com+position 7、と三つの催しものに出かけたり出演したり出かけたりしたけれど、陶器市やら音箱展やらで、それについて書く時期を逃してしまったので、もう書かない。フタリフェスティバルの自分のことについては書くかもしれないけど、ほんと「書く」ときの思考って独特というか、ことば、文字、概念、などなどに書かされている、とまでは言わなくとも、それらに依存しきっているのが分かる。なにか確固たる考えやイメージがあって、それを「書きことば」によって置き換えているわけではない、ということが実感として分かるのは、ここで書いているようなお堅いことを普段の会話ではぜんぜんこれっぽっちもできないことに気付くとき。「書きことば」を「話す」ようにしたら、できるのかもしれないけど、別にしようとも思わない。一般的に「美術」っていうときの、その対象って、「視覚的生産物」「被視的生産物(見られるモノ)」とでもいうような意味なんでしょうか。それならば、そういうものが在るところならばどこでも美術館でしょー、という感覚が生じてもおかしくないですね。。どうなんだろうと思いますが。。芸術とか美術とかいうときの、概念の二重性をどう捉えるか難しいところですね。良い方に捉えたいとは思いますが。そうしないと本物の芸術/偽物の芸術、プロの芸術/アマの芸術、みたいな区別(差別)を必要としてしまいますしね。→http://d.hatena.ne.jp/kachifu/20080519 音箱展は日曜日に終了。鈴木勝さんや米子っちにも言われたけれど、私だけが、自分の専門のことをやっていないというか、「らしさ」が見えない感じで、ぼんやりしたものになっているのだけれど、そういう理由により、「作品」に作者の「個性」を求める人にはまったくさっぱり理解しがたいものかもしれなくて、それはたぶん私にスタイルや様式としての「らしさ」の積み重ねがないからで、というよりも、そもそも「積み重ね」が可能なことをやらないからというのもあるけれど、私が音箱展に提出したのは、自分のおならを録音した音箱で、さあ録音するか!と思ってもすぐにおならがでるわけではないので、音箱に入っているマイクやスピーカーがついている基盤を部屋のまんなかあたりに用意して、おならが出るまで読書をしたりして待って、いわゆる「へ待ち」をして、おっでそうだ、となったら、基盤の方に行ってボタンを押してマイクに向かっておならをするわけだけれども、おならって、おならがでそうだ、となってから実際に出るまですこし間(ま)があって、その間(ま)もついでに録音される。タイトルは「へ」で、とくに箱になにかしたりすることもなく、そのまま提出して、展示もそのまま平らに置いて展示されていたのだけれど、二日目にちょっと思い立って、箱が台に触れている面の右側を、箱の下に透明のテープを丸めたものを挟んでちょっと持ち上げて、おならをするときにちょっとおしりを上げるみたいにしてみる。おならをするときにちょっとおしりを持ち上げたくなるのはなぜだろう。へをスムーズに外に排出したいからだろうか。この「へ」と題された音箱で私のへの音を聞いて、おそらくみんなが思うのは、「ヘ」と題されたこの音箱で、たしかにへの音を聞いた、これは理解できる、しかしなぜいまここでなんの変哲もないへの音を聞かされなければいけないのか、バカじゃないのか、ということだろうけども、その疑問に答えるのはなかなか難しい。まずそれは、展示全体のなかの異物というか文脈を攪乱するとかそういう反芸術(という純芸術)っぽい身振りでなされてはいない。しかし、作者の個性の発露でもない。それでも強いていえば、そんなバカバカしいことをあえてやってしまえる個性、とでも解釈できるだろうけど、そんなみみっちい個性なんて面白くもなんともないし、いま必要でもない。そもそも「へ」に個性なんてない。私の「へ」もあなたの「へ」も「へ」であることに変わりはなくて、音がでかいとかきのう肉を食べたから臭いとかそういう程度の違いしかない。だから「へ」という音箱をつくるのは私でなくあなたでもかまわないわけで、さらにいえば、あなたでなくだれかでもよい。「へ」という音箱を私がつくる必然性がそもそもないし、私だけが思いつくような独創的なアイデアであるわけでもない。みんな思いついても「自分らしさ」があるからそちらを選ぶというだけで、たんに「やるか/やらないか」ということなのであって、みんなやればいいのに。「へ」を「良い/悪い」「好き/嫌い」で判断することはできなくて、とはいっても「「へ」という音箱をつくってしまうこと」を、「良い/悪い」「好き/嫌い」で判断することはできるだろうけれど、それはおそらくそのままあなたのステレオタイプのかたちでもある、かもしれないし、それはあなたの「個性」と言い換えられるかもしれないし、あなたが信じているもの、あなたが依って立っているもの、かもしれない。「バカバカしい」「くだらない」というのは両義的な概念で、良くも悪くも捉えられて、そういう意味では、ひとつの踏絵のようなものかもしれない。踏ませる方はたかが絵なのになぜ踏みたがらないのか理解できないし、踏む方は神聖な絵をなぜ踏ませられるのかが理解できない。とにもかくにも、「「へ」という音箱をつくってしまうこと」に対して、良くも悪くもなんらかの判断をするときには、かなり能動的・意識的な選択をせざるを得なくて、それか無視して見なかったことにするかのどれかで、みなさんそれぞれそのどれかを選んだんだと思う。とかいうのは、いま思いついたことで、へを録音するに当たって思っていたのは、「へ」ならみんな分かるしみんな笑ってくれるだろう、ということで、実際に人前にだしてみると、必ずしもそうとは限らないようで、それが面白かった、というか、かえって安心した。でも、そもそも「「へ」という音箱をつくってしまうこと」は「バカバカしい」「くだらない」ことなのだろうか、「バカバカし「くな」い」「くだらな「くな」い」からそういうよりほかないのではないだろうか、そういうふうに判断する基準が私(たち?)に習慣的に備わってしまっているだけなのではなかろうか、「バカバカしい」「くだらない」というのを「良い(面白い)」とも「悪い(面白くない)」とも捉えないことが重要なのではなかろうか。そういう判断ができてしまうこと、その条件や基盤になっていることは、どういうことなんだろうか。