いつも思うのは、誰かの発言とか主張とか作品とか解釈とかを「間接的に」批判するときに、つまり、その誰かと直接に対峙していない場合に(別の誰かとその誰かのはなしをするとか、文章として発表するとか)、起こる弊害として、批判する側の主張が、批判される側の主張よりも、優れている、乗り越えている、上位に位置する、ように見えてしまうことです。(保坂和志さんがいっていた、引用箇所がひとつの真理のように機能してしまうという「引用マジック(とでもいうべきもの、保坂さんはこういう言い方はしていません、たしか)」とも近いと思われます)たとえば、くだんの保坂和志さんの文章を読むと、(「引用マジック」ともあいまって?)「分析哲学」がなにかよく知らない私には「分析哲学」がとてもいかがわしいものに思えます。そうすると「分析哲学」についてちゃんと知ろうとすらしなくなるかもしれません。第三者に与えるそういう可能性(危険性)があります、やっぱり。あともうひとつ例を挙げるとすれば、日本における「現象学」の一般的な(従来の?)解釈を竹田青嗣さんは痛烈に批判するのですが、竹田さんの著作から「現象学」というものを知った人には、竹田現象学現象学、というふうになってしまう可能性(危険性)があることは否定できません。もちろん批判する側の主張は批判される側の主張を「踏まえている」わけですが、それは必ずしも(なにも、と言いたいところですが、ここはあえて少し弱い表現にしておきます)「乗り越えている」わけではありません。ここには私たちが誰しも持っている、素朴な進歩主義というか、後のものが進んでいる、後のものが優れている、というような思い込みというか偏りがあると思うのですが、それだけでもない気がします。だから、たとえば、時間的に前と後の関係にあるふたつの主張を聞く(読む)第三者の方々は、まず原典にあたり、それぞれにそれぞれの論理に従ったそれぞれに首尾一貫した主張であることを認めたうえで、自分のフィルターでもって自分に必要だと思える部分を、両方から取り出せばいいだけだと思います。また(発言者としての)「慎ましさ」というものがあるとすれば、なにかもの申したいときに(それはたいてい、というかほとんど、誰かの主張を「踏まえた」うえでのことですが)、その動機が「反発」か「付け加え」かそれ以外のなにかなのかちゃんと見極めたうえで、ものを考えることかと思います。動機に良い悪いがあるとかいうことではなく、それを意識しているかどうかで、考え方も変わってくるのではないかしら、ということです。なにより、まずは、一回は、誰かの主張をその誰かの立場(文脈)に沿って理解しようとしてみる、ということかと思います。はなしはそこからです。仮に誰かの主張を批判するとして、批判するまえに、自分はどのように理解したかをまず表さないといけないかなと思いますが、これはこれで難しいことではありますが、できないことではありませんが、自分ができているかどうかと問われれば微妙な部分もありますが、どちらかというと「きれいごと」なのかもしれませんが、こうしないと世の中が自分の嫌いな人ばかりになってしまうというか、やっていかないと得るものも得られない、なのか、得られるものも得られない、なのか不安になってググってみたところ、「得るものも得られない」が約 1,960件、「得られるものも得られない」が約2,140件なので、結局どちらかはなんともいえないのですし、どちらも間違っているような気もするのですが、とりあえず少しでも件数が多い方にしておきたい、のも素朴な進歩主義なのかどうか。→http://d.hatena.ne.jp/recorded/20080202