中山元「思考の用語辞典〜生きた哲学のために〜」「因果関係」の項の最後らへんより

「なぜ」という問いを問わなくなるとき、はじめて重要な事実に気づくことが多い。そしてこうした事実について探求を続けることで、解答に到達するのである。(ウィトゲンシュタイン哲学探究」)

原因を把握したい。事態を正確に理解したい。ぼくらにとってごく当然なことに思えるよね。でもウィトゲンシュタインは、それが当然に思われるのは、人間の心理学的な癖、傾斜によりかかっていると考える。その傾斜にさからってものごとをみることが必要なんじゃないかと。

うーむ。そうはいっても、原因と結果はぼくたちが人間を理解するうえでは、やっぱりだいじだ。これなしでは自己の同一性も維持できない。だいたい自分の行為がどんな結果をひきおこすか認識できなければ、なにものにも責任をもてない。人間の行為を因果関係として把握し、それをみずから納得できる物語にするところで、歴史は生まれる。ウィトゲンシュタインの警告にもかかわらず、ぼくたちはこうした物語なしでは生きられないんだ。ニーチェっぽくいえば、因果関係という考えかたは、人間がそれなしでは生きていけない誤謬のひとつということになるのかもしれない。やれやれ。

ここを読んで改めて自分を眺めてみて思ったのは、私はまず、自己の同一性の維持を諦めるというか放棄しつつある、ということ。それが放棄できるかできないかは別にして、同一性の根拠を問えば同一性の維持はできない、ということ。そして次に、だいたい自分の行為がどんな結果をひきおこすか認識でき(ると思っ)ていないので、なにものにも責任をもてない、ということ。つまり結果のための原因であろうとはしない、というか、結局はそのような存在は有り得ないと思っていること。結果はつねに原因から逃げ続けるし、原因はつねに結果を追い続ける。だから私は結果から原因が導き出されるような思考ができなくて、そうなるとやることなすことそういうものではなくなってくる。私がやったことについて、「なぜ」と問われても、それによって、私は私に起きたことを考えているところなので、あなたはあなたに起きたことを考えてください、としか言えないこと。そしてそこにはおそらくポジティブな可能性があると思っていること。(とはいっても無意味なモノ/コトからでもいくらでも意味をひねり出せるなんてことではないし、そもそも完全に無意味なものごとなんて有り得ないし(モノでもコトでもなんらかの「かたち」があれば意味も生じ(得)る)、だから、無意味なものごとにこそ意味があるとかいうことではなく、無意味なこともあっていいじゃないということでもない。意味から逃げることは不可能だと認識したうえで、意味が生まれるのはことの前ではなくてことの後だと認識したうえで、ならばどうすれば意味((付ける人間?)の無指向性)が活きるか、ということ)なので、風船を持って行ったのは私かもしれませんが、あの風船の使い方は吉村さんのアイデアなのでそもそもそれは吉村さんのアイデアですよ、吉村さん!「吉村さん」が3回。まえの2回を最初は「あなた」にしていたのだけれども、なんだかよそよそしかったのでやめる。この一文を読む最初はなんのことか分からず最後の「、吉村さん!」で分かるようになるかなあと思ったのだけれども、それよりも「あなた」(という呼びかけ)が醸し出すよそよそしさが気に入らなかったので変える。→http://d.hatena.ne.jp/andsoon/20080124 女医さんはひととおり私の歯を点検したあと、助手の女性に「ここはわたをちょうだい」と言って(わたをつかうということは歯とほほの裏側とのあいだにわたの筒のようなものを詰めるんだろうか)、助手の女性が動かずに聞き返すと「ココアバターをちょうだい」と言って、それらしきものが助手の女性から女医さんに渡されて、「小田君は油脂が足らないから」と言ってココアバターというものを唇に塗られる。原因が原因たりえるのはそれがある限定された範囲のなかだけであって、たとえるならば、その範囲が円ではなく限りなく点に近いような場合だけなのであって、つまり原因と結果のそれぞれの点が線で結べるような場合だけであって、ということは結果を原因に従わせるためには、たとえその結果が出たあとであっても、それらはすべてその点と点を繋いだ線のなかの出来事であると思い込まなければならないということ。それ以外にできることといえば、それらが現実には点と点を繋いだ線のなかの出来事でないことを、自分の落ち度ないしは相手の落ち度ないしはどうしようもないことだとして嘆き続けること。とかいっていると、私に「なぜ」と問うのがよくないことのようになってしまうのだけれど、もし問われたら問われたで、その時点でそれは私にとってどういうことだったのか考えたことを説明するのでだいじょうぶです。