あーそういえば今ごろ気付いたのだが、10月6日の企画、直嶋君、平間君と私の演奏がなかった。ここ最近ずっと、なぜ私たちのような音楽の演奏会に人が来ないか、ということを考えていて、それはおそらく私たち自身が結局は好き/嫌いの「選択」の次元でやっているからだと思った。「そういう」ものとして、「音楽」のひとつのバリエーションとしてしか提示していないから、好きな人は来るし、嫌いな人は来ないし、そうでない人には私たちがいることすら知られない。膨大にある情報のなかの選択肢のひとつとして、CDショップに置かれるCDのひとつとして、すでに出来上がっている消費のサイクルにおいて提示してしまうと、より一般的なもの、より情報をうまく伝えているもの、に選択肢としての選ばれやすさで敵うわけはないのだ。それを選ぶ側だけのせいにするのははっきりいって間違っているし、知名度だけの問題でもないし、できることなら選択という仕組みそのものについて考えたい。「自分の好きなものを他人にも分かってもらいたい」などという次元でやっていても、お互いに好き/嫌いの「選択」の消費を繰り返すだけでなんにも生産性はないような気がする。そもそも自分の好きなものなんてそれが実際に目の前に現れてみないと分からないし、誰かが好きそうなものは作れてもその誰かを自分だと思い込まない限り自分で自分の好きなものを作れるなんて到底思えないし、実際に作れたこともないので私自身はいまこういうことになっているのだと思う。とにかくまずは好きか嫌いかではないところから始めたいと思う。自己主張とか自己表現とか自己規定とかのために「選択」する必要のないところ。オレンジレンジが嫌いだとか中島美嘉が嫌いだとかミヒマルGTが嫌いだとかコブクロが嫌いだとかSotte Bosseが嫌いだとかただ言うだけで何かの意思表示になるなんて馬鹿げているとしか思えないし、ボアダムスが好きだとか山本精一が好きだとかオシリペンペンズが好きだとかミドリが好きだとかズイノシンが好きだとかあふりらんぽが好きだとかただ言うだけで何かの意思表示になるなんて馬鹿げているとしか思えない。とか書いているあいだにも好きも嫌いも「選ぶ」ことに変わりがないということを言いたいのに、「〜が嫌いだとか」と「〜を好きだとか」の選び方から、何らかの意図のようなものが勝手に立ち上ってきている。何かを選ぶことで何かに参加していることになるのだろうか。「選ぶこと」とはいったい何なのだろうか。
保坂和志「小説の自由」8「私に固有でないものが寄り集まって私になる」より

引用というのは、それによってある権威が付与されるような効能がある。いまここでは、私は精神分析という権威を借りたわけだが、それ以上の引用の効能として、「引用箇所は真偽を問われない(問われにくい)」または「なかば自動的に引用箇所が真理として機能する」ということがある。引用箇所は数学の定理と同等の価値を持つ、証明済みの信じるに足る事項であるという錯覚を読者に与えやすいのだ。[中略]こういう引用によって引用の奇妙さに気付くと、「なかば自動的に真理として機能する」引用によって論旨の正当性を確保したいという以上に、引用することで引用者の側がその言葉に真理としての権威を与えているという転倒が起こっていることがわかる。

という言葉をここでまた引用しているわけだが、それはとりあえず置いておくとして、このことはなにかを「選ぶ」ことで(引用も選ぶことである)それを選んだ主体と選ばれたものとのあいだの閉じられた循環によって同語反復的な奇妙で空疎な価値が生み出されてしまうことと同じだと言えないだろうか。だからこそ初対面の人とはなす時、自己紹介がわりに自分の好きなものをひとつひとつ挙げていくなどということが行われるのではないだろうか。そこではもう選びたいから選んだのか、選ばざるを得なかったのか、選びたくないから選ばなかったのか、の区別が全く無くなっていて、閉じられた循環で起こる効果しかない。「わたし」は自分のなかの基準によってこれを選んだ(はずだ)、よってこれを選んだ自分のなかの基準は「わたし」なのだ、というよく分からないことが起こっているし、「わたし」は〜〜のような人間になりたいからこれを選んだ、よってこれを選んだ〜〜のような人間は「わたし」なのだ、というよく分からないことも起こっている。「なりたいわたし」が何か分からなくても何かを選びさえすればそれがすでに「なりたいわたし」なのだ。なんなんだろう、これは。あと、「引用」の効能ということでいえば諏訪哲史「アサッテの人」も叔父の手記と過去に書いた原稿の引用で起こることを利用していると言えなくもない。