今日というかもう昨日だがやっとヴァージニア・ウルフ灯台へ」を読み終えて
「私のように美しい」8月10日より

今日、昨日、やっとギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読み終えたのだけど、彼の人生は最高だったらしくてあっそうという気がして読み終わってせいせいしたり、でもところどころとてもよかったりして、あっそうってわけでもないなあと思った。そのため、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』がまた何かちょろちょろと読みたくなり、今日ぽろぽろと読み出したのだけれども、やっぱりこの小説はとても好きなようで1行目からわりと、ああやっぱりこの小説はすごい小説なのだなあと思わされる。音楽のように言葉や思考があふれ、情景を追っていくことがすごく気持ちよくなる。また通読したいような気もするけど他にも読みたい本あるのでどうかわからないけれども、たまにフィッシュマンズ聞いてるとああフィッシュマンズだけあればいいかなあとか、ああトーキング・ヘッズだけあればいいかなあ、となる時期というのがあるのだけど、今日ウルフ読んでたら似たような気分になった。

にあるような気持ちがなんだか分かるような気がしたが、気がしたのは気のせいかもしれない。
読んでいてちょくちょく保坂和志の「季節の記憶」を思い出していて、
それがなぜかはよく分からない、というよりその類似をどう表したらいいかが分からない。
灯台へ」を読み終えた後にコーヒー豆を買って、
「ご自由にお持ちください。」(便宜的にそう呼ぶ)の録音をしながら河原でパラパラと再読していた
佐々木敦「(H)EAR-ポストサイレンスの諸相-」に入っている「現前する「記憶」ジョナス・メカス論」に気になる箇所が

彼とボレックスはもはや一体化している。それは、メカスがどんな時にもキャメラを手離さないという表面的な事実よりも、もっとはるかに積極的な意味を帯びている。メカスがキャメラを通してものを見ているのではない。メカスが見ているものと、キャメラのレンズが対峙しているものが同じであるかどうかは、さしたる問題ではない。意外に思うかもしれないが、メカスとキャメラの一体化は、見ることの水準にはないのだ。(中略)つまりそれは、ある何かをそのままの姿で留めること、保持していくこと、要するに「記憶」の水準に属しているのである。

ここで言われていることはそのままフィールド・レコーディングにおける
人間と録音機材(マイク、レコーダー)の関係にも当てはまるような気がする。
そしてこのことは、同じく佐々木敦「(H)EAR-ポストサイレンスの諸相-」「「サウンド=アート」の境界設定」での
ジョン・ヒューダックに関するくだり

重要なことは、いずれ大胆なサウンド・プロセシングを施すことになるのだとしても、それに先立って、所与の「フィールド・レコーディング」を、ヒューダック自身が、少なくとも二度は「聴取」している筈だということである。一度目はレコーディングのリアルタイムにおいて、二度目は録音された「音」の最初の再生時において。「振動」する「世界」との遭遇は、かならず二度、演じられる。もちろん、既に見たように、そこにはあらかじめ原理的な困難が装填されている。だがむしろ、だからこそ「世界に対してマイクを向け」なくてはならないのだ。 なぜならそれは、この「世界」がたえまなく「振動」しているという事実、「振動」する「世界」がそこにある、という事実の証明(たとえそこにいかなる不可能性が纏い付いていようとも)であると同時に、それがそのまま、他ならぬ「私」がここにある、ということの証明でもあるからである。

で語られていることとはまた別の可能性を示唆しているのではないか。


私はテープレコーダーで録音しているあいだ、「いま、テープレコーダーが録音している」
ということを意識して、テープレコーダーがぜんぶ録音してくれている、という気持ちで
周りの音(に限らず光や温度や匂いや風などの変化)という「振動」する「世界」を体験している。
この体験は、マイクからの入力をヘッドフォンでモニターしながら録音するのとは、おそらく違う。
マイクからの入力をヘッドフォンでモニターするということは、マイクと耳が物理的に一体化することだ。
(私のテープレコーダーはマイク内蔵型なので、マイクと耳の物理的な一体化は不可能である)
また、私が、マイクからの入力をヘッドフォンでモニターしていない以上、
録音されたテープに入っているのは私の「記憶」ではない。
私のものでないから、私の家に置いておくわけにもいかず、無料配布してだれかに委ねようと思ったのだろう。
だれのものでもない(強いていえば私のテープレコーダーの)「記憶」であるテープは
私からだれかへ、だれかにとっては、だれかから私へ、うつってゆく。
だれのものでもない「記憶」は、だれのものでもある「記憶」なのだろうか。