立ち上がれラップトッパー!とのこと。
福居伸宏さんのはてなスターページを徘徊していて発見。
ちなみに私はたいてい立っている。
別にラップトッパーじゃないけれど。
でもそう自称した方がいいのならそうしたい。


mattinのラップトップ演奏はラップトップの(記号的な?)「イメージ」を利用しているようなところがあって
そういう意味ではラップトップ演奏であってラップトップ演奏でないようなところがある。
もちろんmattinのラップトップ演奏の登場は非常に重要だけれど、
それだけ取り出して考えると発展のしようもないというか、
mattinに始まりmattinで終わっているような気がする。
激しく動くにしても音楽としてのラップトップの演奏であるならば、
やはり気合いが演奏の良し悪しを決めるとかではなく
具体的に相互に作用していなければ音楽の演奏としてはあまり意味はない気もする。
ラップトップでファイル再生するだけなのに、アクションは派手だから盛り上がる
みたいなことも起きているかもしれないけれど、それが成り立つのも短いあいだでしかないように思う。
アクションよりも鳴ってる音に耳がいくような状況ならそれでもいいかもしれないけれど
アクション(演奏行為)=音(音楽)のような状況では長続きしないというか
基本的には(正攻法では)成り立たない(認められない)のではないだろうか。


ラップトップのライブがつまらない、とかいうようなざっくりとした括りでの議論や
最初からラップトップのライブがつまらないことを前提にした好きか嫌いかの議論ではなくて
ラップトップを使ったどういうライブがどうつまらなかったか、というような
具体的で個別的な部分から改めて始めて、なるべく好き/嫌いに惑わされずに考える方が
生産性があって面白いような気がしている。
また、身体性や見た目の問題なども致命的なものなどではなく、数ある問題のひとつに過ぎないと思う。
どういうかたちであれ、ラップトップから音楽が生み出されつつあることさえ実感できれば
誰も身体性や見た目なんか問題にしないのではないだろうか、どうなんだろうか。
とはいっても、ヒトはそれをどういう風に実感するのか、どうしたら実感するのかが
私には分からないのだけれど。
身体性や見た目ももちろんあるけれど、それだけじゃないような気はしている。
そこをうまくかわしているのが宇波拓さんだと思う。


いまやラップトップ(コンピュータ)なんていろんな音楽のライブに用いられているのだけれど
その中のある特定のジャンル(形式)でのみライブの問題が持ち上がるのは何故だろう。
単純にやる側と観る側それぞれの「ライブ(演奏)」という概念のすれ違いのような気がする。
具体的に言うと、
やる側は、家でいくらでも時間をかけられるからこそ出来ることをそのまま
本番一回だけのライブでやろうとしてしまい、
観る側は、「いま-ここ」で音楽が生み出されているという確かな証拠が欲しいのに
それは最後まで与えられない。
ややこしく言うと、
ライブの
「いま-ここ」という一回性の現実空間と
ラップトップの0と1を反復すること、計算の
「いつでも-どこでも」という反復性の仮想空間は
原理的に相反するからではないだろうか。
時間、空間による限定が不可欠な
ライブの一回性という概念には
(それが便宜上の形式であったとしても)
計算の反復による仮想空間上の
無時間、無空間は含まれ得ないのでは。
だからみんなその無時間、無空間を限定するためにいろんな策を講じる。
「手による演奏(操作)」の一回性に頼るか、
あらゆる「確率」による可能性という仮想空間を「いま-ここ」で観測するか、
開き直って「いつか-どこか」で作られたものを「いま-ここ」で再生(再現)してみせるか、
またはその3つのハイブリッドか。
私自身はそのくらいしかいまのところ思いつかない。
そしていま一番貧弱なのが「手による演奏(操作)」で
だいたいそのままのコンピュータのインターフェイスなんて
均質化、単純化された数値しかとれないようになってるのに
その状態のまま「手による演奏(操作)」なんていうのが馬鹿げているし
USBでツマミを繋いでいじるなんてコンピュータ以前のことを
強引にコンピュータに押し込んでも何の意味もないだろう。
0〜127の直線的な変化しかできないMIDIコントローラーによる情報がいかに貧しいか。
貧しさも逆手に取れば面白いとは思うのだけれど。
なおかつ、コンピュータ自体が外と接する部分という意味のインターフェイス
コンピュータの計算が外と接する部分という意味でのインターフェイスもあってややこしい。
ここまで書いてきてふと思ったのだが
「ラップトップのライブはつまらない」と言われるのは
見世物として期待しているのに、実際はそうじゃなかったからかもしれない。
それともラップトップ奏者がラップトップを介して一歩引いたところにいるのが
ただ単に気に入らないだけなのかもしれない。
「何をやっているか分からない」ではなく
「何をやっていてもいいじゃないか」と思えないのが
いったいなぜなのかが私には気になる。
因果という観念に縛られているだけなのだろうか。
私自身もラップトップのライブ(あくまでもライブに限る)で
途中、退屈しなかったものはほとんど無いような気がする。
4年前に大阪で観た、36個だったかのスピーカーを使ったfenneszのライブは
あまり退屈しなかった気がするが、どっちかというとライブというより音楽鑑賞会のような感じだった。
5、6年前に観たheckerもその当時は新鮮だったけれど、いまライブを観るとどう感じるだろうか。
ラップトップのライブというものは、
完全にコントロールされたものをプレゼンテーションする場としてか
成り立たないものなのだろうか。