部屋の中に蚊がいると気付くのは何故かテレビのブラウン管の前を飛んでいる時が多くてそれが蚊とどんな関係があるのかは分からないけれど深夜テレビを御苦笑ではなくこの変換はなんなんだろうか「神が御苦笑なされた」といったような使い方をするのだろうかまったく意味が分からないが極小の音量で見ていると外の塀に沿って少しだけある土の部分が竹林のようになっていてこの前コーナンから鉈を買ってきて切ったけれど最近またニョキニョキ生えてきていてそのあたりからカサカサと音がしていて以前から気付いていて何の手応えもないままにキンチョールを噴射してみたりしていたのだが一昨日だったかまたカサカサいっていてキンチョールを噴射してみるとゴキブリが積もってベージュ色になった笹の葉の下から出てきてこのカサカサの正体がやっと分かって分かったからといって別にどうでもいいのだがひとしきりキンチョールを周辺に噴射したあとふと思い立って湯を湧かしキンチョールで苦しんで動けなくなっているゴキブリとゴキブリが出てきた笹の葉のあたりともう一カ所洗濯機の前の笹の葉のあたりに熱湯を撒いてみたのだが虫の退治には熱湯が一番で実家にいる時もムカデが出れば叩くより熱湯でムカデに限らず熱湯はゴキブリでもクモでも何でも効くし濡れるけれど叩くのに比べたら床やカーペットが汚れることもなくて先日も寝ながら本を読んでいたら小さいムカデがウニョウニョと現れてとりあえずキンチョールの缶で上から押さえつけて動きを封じておいて熱湯をかけたキッチンタオルを上から被せて動かなくなったところでそのまま包んでゴミ箱に捨ててそういえば米子君が虫を殺したりするのができなくて何故できないかといえば小さい虫といえども殺してしまったことの責任を取れないということでそう言われれば確かに命を断ってしまうわけで責任は取れないなあと思ったがちょっと違うかもしれないが私は小学生の頃に石を蹴りながら帰っていた時期があってある時ふと私が帰り道から家まで石を蹴ってきたことつまりもとあった場所から石を動かしてしまったことでひょっとしたら何かこの世界に影響があるのではなかろうかと思ったのがきっかけかどうか分からないしいまとなっては全く思い出せないがいつのまにか石蹴りはやめてしまったがきょう河原で川に足を突っ込みながらアンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言・溶ける魚」を読んでいてマルセル・デュシャンについての本たとえば対談とかを読んでいるとどこかで必ず出てくるのがアンドレ・ブルトンとレーモン・ルーセルアンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言・溶ける魚」の訳注や解説を読んでいるとどこかで必ず出てくるのがマルセル・デュシャンとレーモン・ルーセルでレーモン・ルーセル「アフリカの印象」の解説を読んでいるとどこかで必ず出てくるのがアンドレ・ブルトンマルセル・デュシャンであとどうでもいいがジョルジュ・シャルボニエ「デュシャンとの対話」は訳が悪いと思うのだがどうだろうかとはいってもつくづくみすずライブラリーのカバーはどれを見てもかっこいいがきょう河原で川に足を突っ込みながらアンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言・溶ける魚」を読んでいてといってもきょう読み終えたのはシュルレアリスム宣言だけだがとにかくシュルレアリスム宣言におけるブルトンシュルレアリスムの定義

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。

をいまibookのキーボードで打っていて「思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。」のくわだてる。が漢字ではなく平仮名なのがなんかいいなあと思って「美学上ないし道徳上の」のところをちゃんと変換してくれなくて何度やっても「美学場ないし道徳場の」になってしまってなんとなく剣道場とか柔道場を思い出すがまあ美学場はいいとして道徳場はなにかしらとても恐ろしい響きであるが2007-08-03で書いたことと何かしら近いものも感じるしいま感じるしと書いておきながらなんなのだが微妙も違う気もするしただ連想だけで書いていったという意味で自動筆記的であるという部分で近いのだろうかどうなのだろうか2007-08-09なんかはほとんど連想としての自動筆記の産物と呼べるものでいつもそうなのだが別に書きたいことなんてそもそもなくてなんか思いついた適当なことから初めて連想を頼りにダラダラと書いていくとフッとこの前思ったこととかが浮かんできてそれを強引に繋いでさらにダラダラと書いていくだけでそもそもクリエイターがどうとか書くつもりもなくてそしてミントの広告がどうというよりむしろ阪急三番街とかディアモールとかのバーゲンの広告とかテレビCMがダジャレだらけでなんだかなあ別にいいけどダジャレは強いからねえと思っているのは確かでとか書いているとまたこの類いのことが始まってしまうのでこのへんにしておいてとにかくいま思いついたのは何か一貫した流れというか論点の元に言葉を繋いでいくよりバラバラと拡散して蛇行しながら並走するような言葉の繋ぎ方の方が性に合っている気がするということで語られた言葉(光を当てるから)の裏に語られなかった(語り得ない?それとも未知の?)言葉(影ができる)のだとすればとにかくいろんな方向に滅茶苦茶に語る(光を当てる)ことで語られなかった(語り得ない?それとも未知の?)言葉(影)もその分たくさん増えるというか豊かになっていくこともあったりするんじゃなかろうかということがひとつの希望であっていまテレビのチャンネルをNHKから変えたらくりぃむナントカがやっていてちょっと見ようかと思うが希望とかそういうのは字面と響きが大袈裟で気に入らないしなんでも字面と響きだけで語る人も多いけれどその意味するところのものは無いと困るものだとは思うしいま何チャンネルだろうかさっきまで米米クラブ(倶楽部?)がトークをやっていた番組でいきものがかりという若いバンドが演奏していて私は最初このバンドの名前を知った時にいきものがかり=生き物係だと考えずに神がかっているという意味の「神がかり」のような感じでいきものがかりとは生き物がかっているということだとなぜだか思っていたがまだ頭の中にはシュルレアリスムのことがあってアンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言・溶ける魚」のamazonのカスタマーレビューとかをダラダラと読んだりしていたら2005-07-16の「他人と同じ土俵で自分なりのものを作るより自分も含め誰も分からないものの方がいい。」っていうのは割とシュルレアリスム的な感じがするとか思ってアンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言・溶ける魚」のamazonのカスタマーレビューのひとつにも引用されているが

私のつくったものも、つくらなかったものも、みんなあなたにさしあげる。

という一節はなかなかいいと思って最後の

生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。

という一節もなかなかいいと思う。