テレビのチャンネルを特に目的もなくぐるぐると回すという回すという比喩はむかしのテレビのチャンネルがツマミのようなものでぐるぐる回していたからかどうかは分からないが私が小学校の頃くらいまでは茶の間にこの型のテレビがあったように記憶していて私の場合やっぱりなにかしら外国の景色が写っているとそこのチャンネルで止まる傾向が強くてそれはNHKのドキュメンタリーであったり世界ふしぎ発見であったり金曜ロードショーであったりするのだがつまりただ単に外国の景色であればなんでもいいということで最近は暑いのでフロに浸かって本を読むことはやめていてぬるま湯に浸かるくらいならそう暑いこともないだろうし暑いということはそうやめる理由にはならないように思うが一回習慣が途切れるとまた再開するのがなかなか面倒であるということで最近はフロはさっさと切り上げて深夜フロ上がりに布団でごろごろしながら4〜5時間読書するのが新たな日課になっていて昨日読んでいたのはレーモン・ルーセル「アフリカの印象」とクロード・レヴィ=ストロース「構造・神話・労働」のふたつを読んでいてアフリカの印象はやっと唐突に始まったなにかの祭りの見せ物の場面の羅列の第一部を抜けて第二部に入って物語の語りが表に出てきてリズムが全く変わって俄然面白くなってきておそらく第二部から読んでも面白いだろうし実際1910年に出版された初版本には「レーモン・ルーセルの芸術に通じていない読者」に対し、第二部に相当する部分から読みはじめることをすすめる小さな紙を挿入していたということが訳者解説に書いてあるけれど第二部を読んでからだと第一部を読むのがかえってだるくなってしまうような気もして保坂和志は第一部について描写の細かさしつこさにもムラがあることを指摘していたと思うのだが第二部にも細かさしつこさにムラがあってこれは別にネガティブな印象ではなく早く先を書きたいという意思の顕われのようにも感じてこれはガルシアマルケスの「百年の孤独」にも感じたことで物語はどんどんどんどん勝手に寄り道をしながら勝手な方向へ先に歩いて行ってしまうのがとにかく「ただ移動すること」が好きな私には心地よいことでもあるがレヴィ=ストロースの「構造・神話・労働」は初来日時の講演や対談やシンポジウムをまとめたものでその語り口はとにかく謙虚で一歩一歩ざくざくと音を立てながら荒野を歩いていくイメージは彼が民俗学者であるから浮かぶというだけではないように思えて具体的なデータを基に思考を裏返したり縦や横にしてみたり右や左に回してみたりしている様はこの本を読むだけでも十分伝わってきてとても面白くこの人の著作を本格的に読んでみようと思ったのだが非公開シンポジウムの要点をまとめた章のある箇所

レヴィ=ストロースが説明した現代西欧社会の「商品としての労働」、ユダヤキリスト教的伝統の「罰としての労働」に対して、作田啓一氏は、日本の場合「商品としての労働」という見方は日が浅く、伝統的には「使命としての労働」という考え方があることを指摘した。具体的に言えば、日本人は一つには祖先の財産を減らさずに子孫に伝えるために働く。一つには労働を通じて集団に参加するために働く。このように、集団との関係で労働が意味を持つのである。

は非常に実感を持って理解できると共にこの頃(1977年)と比べてやはり労働観はどんどん変わっていっているということが分かって私がひとつの組織(集団)で働いた実感として常に感じていたことは「商品としての労働」と「集団参加としての労働」と「自己実現としての労働」の三竦み状態になっていることでもちろんそれぞれは少しづつ重なっているのだが祖先の財産を減らさずに子孫に伝えるという「使命としての労働」はほとんど死にかけていてそういえば私は祖父に「私は親父と一緒にこの家を建てた。おまえの父親は増築した。おまえも家という財産を少なくともなんらかのかたちで発展させなければならない」というようなことを高校か大学の頃言われた記憶があって私の周りでは労働は商品として切り売りしてその余暇でやりたいことをやるという人が大半を占めていてそういう商品としての労働の副産物として集団参加としての労働が混じっているのだがその反対に自己実現としての労働がメインで集団参加としての労働が混じっている人もいて商品としての労働と自己実現としての労働が混じっている人が周りにあまりいないのは私がそういう人が苦手だからであると共にそういう人は私のような人間が苦手なんだろうとも思える。