amazonにある青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」カスタマーレビューのひとつの抜粋。

主人公の「ゆるい日常」が屈折した筆致で語られるうちに徐々にメタレベルのテクストが取り込まれるという構成はそれなりに工夫されているのだが、そこに含まれている情報はどうでもいいものばかりだし、語り口にも作者の年齢相応の屈託しか感じられず、「なんだか可愛い」としか言いようがない。同じような構成になっていたはずの村上春樹風の歌を聴け』あたりに比べると、差はあまりにも歴然としていると思う。(まあ、比べるのが間違いかもしれないが……)

正直、こういうウザい話を読むのに貴重な時間を取られたくないとか思ってしまう私は、文学がわからない人間なのかもしれないが(笑)、この手の作品で喜んでいる手合いが昨今の文学を支えているのだとすると、そんなものはわからなくても一向にかまわない、と保坂風に開き直って言ってみたくなったりした。

わからないことはわかることができないことではなく
だいたいは自分の価値観のなかにないというだけのことで
これを
数字でいうゼロのような取り込まれた外部と考えるか
それとも世界の裂け目のような取り込まれることのない外部と考えるか
意見は分かれるところだろうが
その価値観はいつどこでできたのか問うても
誰も答えられないだろうし
これまでの経験が価値観をつくっているというのなら
経験したのはあなたかもしれないが
その経験はどこからやってきたのか考えてみれば
価値観ほどあやふやなものはないと思うかもしれないし
価値観が選択の基準であり結果であると言い張る限り
あらゆる物事に要不要や快不快や好き嫌いや優劣をつけてしまう人間の癖のために
どんどん狭い袋小路に入ってしまうのではないかと心配してしまうが
その袋小路こそがひょっとして一般に「自分らしさ」とか呼ぶものなのかもしれなくて
それはそれでいいのだろうけれどなにが気に食わないかといえば
「自分」という幻想による取拾選択は「自分」の肯定にはならないということで
いくつかのパターンからその場その場で選んで「自分」を作っておいて
いくつかのパターンからその場その場で選んだ根拠を「自分」に求めるのは無理がある。
強いていえば矛盾を避けようとする本性そのものが「自分」であって
その結果生じた矛盾のない状態はあまり「自分」と関係がないように思える。
そういう無駄なことのために無意味な取拾選択をするくらいなら
何も取らず何も捨てず何も選ばずの方がいいと思うが
そういうことはどうも人間の/社会の構造上できないようになっているとしか思えない。