4/28、複眼ギャラリーでのイベントの前に
長堀通りからロフトの横を北上したところ、
ベルリンブックスが入っている農林会館の向かいにある
借しスタジオでもある音楽専門学校に
ドラムイスを借りに行く時のこと。
まだ少し時間があったのでぶらぶらしていて
地下商店街クリスタ長堀のパン屋とカフェが
合体しているようなよくある
特に美味しくもないカフェで
川口君といろいろはなしをしたことを
いま、川口君の現時点での最新作
「sound scape with two objects」を
ヘッドフォンで聴いていたら思い出した。
そこでのはなしで印象的だったのは
音楽として聴かれて
音楽として評価されること、
また、その行為を音楽家のものとして
評価されることは
ありがたいけれども少し違和感がある
ということで、川口君は
何かを自分が作り出すというよりも
いまあるものを自分が探してくる、
いまあるものにに自分というフィルターを通すだけ、
というようなどちらかといえば
なんらかの作為よりも「そのまま」を志向する傾向が強いので
こういう違和感は当然のことなのかもしれない。
しかしこのことはどのような活動をするかの前に
活動そのものの前提として埋め込まれていることで
宿命というと大袈裟だがそういうようなものである。
何らかの作為(音を出すことは言うに及ばず
音を聴くこと、音を記録することも含まれる。
人間が起点である以上、事実上その範囲は
人間のあらゆるすべての行為に及ぶ。)
なしには何の行為も出来事もなく
音を伴うからには音楽として聴かれ得ると同時に
音を伴うからには音楽と呼ばれ得る。
経験や社会的な意味からも
CDというメディアに記録された
何かの音をCDプレイヤーで再生(再現)する時に
それを音楽以前の「出来事」(の再現)として聴く
ことはほとんど不可能に近い。
CDでもテープでもレコードでもMP3でもなんでもいいが
そういう音を扱うメディアには当然のことながら
何らかの価値としての音が収められているものと判断されて
それが落語なら落語として、それが講演なら講演として、
それが語学学習なら語学学習として、それが詩の朗読なら詩の朗読として、
そしてそのどれでもないものであるならばそれは音楽として、
そして聴こうと思えばその全てをも音楽として、
聴覚にのみ特化したなんらかの刺激として聴かれることになるだろう。
そう聴くしかないからだと思う。
たとえ、いま外から聴こえてくる電車や工事や
バイクや車や人の話し声などの様々な音が
録音されCDに収められCDプレイヤーで読み取られ
スピーカーから流れていたとしても
それは外の音とはその文脈において
決定的に違うものであって
まさにそれが録音すること、記録することなのである。
これはメディアが
CDという録音(モノ)から
ライブという行為(コト)に移っても
文脈の固定という意味では同じことである。
それが音楽の演奏だといちいち明示しなくても
どこかのイベントスペース、ライブハウス、ギャラリーなどの
音楽の演奏が行われてもおかしくないようなところで
観客を集めて行われるような
音を伴うなんらかの行為であるならば
それは音楽の演奏だと見なされる確率が高い。
逆に音楽としての文脈に乏しい路上などでは
はっきりと音楽としての目印がない限り
音を伴うなんらかの行為であっても
それが音楽の演奏だと見なされる確率は低い。
(私が去年から継続している
コンピュータのフィードバック音を伴う野外録音は、
川や海や山のような自然環境に限らず、
人の多いところ、駅や路上や公園や喫茶店なんかでもやるのだが、
いままでそれ自体を聴こうとした人はひとりとしていないし、
音楽に関係する何かとも思われていないだろう。
そもそも私自身、本を読んだりぼーっとしたりして
テープの録音が終わるのをただ待っているだけなので
そうなるのは当然だと思う。)
また、物事の分類にうるさい人であれば
音を伴うなんらかの行為が音楽的でない場合には
演奏ではなくパフォーマンスと呼ぶことだろう。
はなしは逸れるが、
音を伴うなんらかの行為を
演奏と呼ぶかパフォーマンスと呼ぶかの区切りは
一体どういうもので、一体どういうことなのだろうか。
音を伴うなんらかの行為の
音に重心を置いたものが演奏で
行為に重心を置いたものがパフォーマンス
という意味での分類なのだろうか。
全てが厳密に分けられるわけではなく
ほとんどはこの二極のあいだの曖昧な部分に
割り振られるにも関わらず分類したいのは何故だろうか。
ラップトップでのライブなどは
行為することを諦めて音に重心を置いたものの極だと思うが
これはこれでたくさんの批判の的になるし、
音に重心を置かず行為に重心を置いたものは
それが置かれる文脈によってはあっさりと
無視されたり排除されたりする。
私個人の考えではあるのだが
(音に限らず)何らかの行為を、
それが属する「であろう」文脈の
「いま」「たまたま」「属してしまっている」文脈の
ローカルなルール、ローカルな見方だけで経験するのは
とてももったいないような気がしてならないがどうなのだろうか。
それを作家の力不足、作品の良し悪し(善し悪し)、
というひとつの面だけで捉えていいものだろうか。
ローカルなルール、ローカルな見方であっても
誤解という豊かな経験ができればいいのだが
ローカルな倫理観によるローカルな善悪の判断とは
いったいなんなのだろうか。
芸術に倫理という善悪の判断は必要なのだろうか。
芸術は作者だけでは完結しないと言われ続けながらも
まったくその言葉の意味が無い(そもそも無いのかも)
ように見えるのは何故だろう。
何かを見聞きして
それをつまらないと感じたとして、
つまらなくとも何故つまらないのか、
自分のどのような思い考えと相容れないのか、
自分にはつまらなくとも誰かにはつまらなくないのではないか、
などいろいろ考えてみることが必要だと
自戒の念を込めて書き記しておきたい。
好きだと思うものにばかり触れるより
つまらないと思うもの、
嫌いだと思うもの、
受け入れがたいと思うもの、
よく分からないと思うものに
触れる方がはるかに得るものがある。
いまは川口君の現時点での最新作
「sound scape with two objects」
はとっくに聴き終えて
平間貴大君の「recording」も聴き終えて
直嶋君からもらった
richard francis/古池寿浩/直嶋岳史「trio at gendai haighs」
を聴いている。
「sound scape with two objects」を
何日か前と今回と2回通して聴いて思ったのは
音楽として聴かれて
音楽として評価されるのは
少し違和感がありながらも、それとは裏腹に
音に対する感覚は、どうしても
楽家のそれだと言わざるを得なくて
音である以上音楽としても聴くことが可能で
というかむしろ音なんだから音楽として聴かない方が難しくて
ここに示されている川口君の
フィールドレコーディングについての思考の
面白さもさることながら、
この作品に収められた2つの録音は
音楽として聴いても面白いということだった。
ひょっとしたらこのことは
川口君個人の知らぬところ、関われないところで
たまたまとれたバランスの上に成り立っている出来事かもしれず
そういう意味では歓迎されてもいいのかもしれないと私は思うし、
また別に、メディアの特性による文脈の固定というよりも
(それもあるとは思うが)
人間が、言葉以外の音声に触れる時
音の意味より音の肌理に惹かれる生き物に
なってしまったことの方が大きいのかもしれない。
人のはなしをその言葉の意味ではなく
その人の声の肌理だけを聴く人なんてあまりいない。
いま「なってしまった」と書いたが
かつてそうではなかったかどうかなんて知らない。
しかし、ヘッドフォンを耳につけてipodで音楽を聴きながら
外を歩き電車に乗り自転車に乗り横断歩道を渡るいまと
ウォークマン以前のむかし、ジョンケージ「4分33秒」以前のむかし、
蓄音機以前のむかし、音楽発明(発生?)以前のむかしとは
外界としての音/音としての外界に対する感覚は
何かしら決定的に違うのではなかろうか。
純粋に思考そのものとしての音なんてありえなくて
思考が音として、音の方法として顕われた時点で
それは音なのだろう。
音が音であることからはなかなか逃げられないし
音が音楽であることからもなかなか逃げられないし
音が人間であることからもなかなか逃げられない。
それでも、音が音であろうとしながらも
こぼれ落ちてしまうものや
音が音であろうとするなかに
隠してしまうものはたくさんあって
川口君の場合は
作り出すことへの違和感がありながら
結局は作り出すというフィクションに
巻き込まれているという
齟齬というか引き裂かれている感じ、
その摩擦にこそ魅力を感じる。
そういう摩擦にしか「個」としての人間は
顕われないような気もする。
どうしても顕われて「しまう」ところにしか
「個」としての人間はないような気もする。
吉村さんにも同じような摩擦があるが
ちょっと事情が違って
摩擦をできるだけ無くそうとしているように
見えるという摩擦がある。
求めても得られない、
行こうとしても行けない、
知ろうとしても知りえない、
語ろうとしても語りえない、
などなどそういうところに起きる
いろんな人の摩擦が面白いと思う。
芸術は人間のところにしかなくて
誰かが作り出したり見つけ出したり
見たり聴いたりして何かを感じたり考えたりする
ところにしかないと考えると、
個々の欲望や思惑や意思や意図などからは
離れられるように見えても、
人間そのものという欲望からは
どうしても離れられないのではないか。