福居伸宏さんのはてなダイアリー、2007年4月23日より孫引き。


 テクノロジーについて考えると、われわれの思考の盲点があらわになる。
たとえば、われわれが「自然的」とよぶのは、きまってひと昔前のテクノロジーである。
その意味で、われわれが「人間的」とよぶのも、ひと昔前のテクノロジーにすぎない。
とりわけ、今日のハイ・テックは、音楽・美術・文学などの領域で、
その根本的な見直しを強いている。
その分析性は、「自然的」や「人間的」なものの根拠を奪ってしまう。
いいかえれば、文学・芸術がなにか自立した
特権的な領域であるかのような幻想を滅ぼしてしまう。
ここで悲鳴をあげ、従来の「自然」や「人間」にしがみつくのは、反動的である。
むろん私はテクノロジーの発展に楽天的な期待を抱いているのではない。
ただ、テクノロジーへの紋切型の批判において、生きのびてしまう諸観念に対して、
異議をとなえたいだけだ。


柄谷行人「テクノロジー」(1985)
『差異としての場所』(講談社学術文庫)より




私が現状のコンピュータ音楽において持っている
腑に落ちなさとなんとなく共通点があるように思ったが
別にないような気もしてきた。
テクノロジー一般における思考の盲点というよりも
コンピュータの場合はコンピュータ自体の特性による
思考の盲点があるのではないか。
モノとしてではなくコトとしての空の入れ物に
何を入れようか悩んでいるだけで
それが「人間」だろうと「自然」だろうと同じこと。
空の入れ物だけで何かできないのだろうか。




ちょっと気になって調べてみたら孫引きはあまりよくないことらしい。
私は柄谷行人の文章を読んだ事が無いのでなおさらよくなさそうだ。
誤読で生じた誤解で揉めるとかそういう次元の問題には関わりたくないが
かといって誤読でもなんでもなにかしらの思考が生じることを
押しとどめてしまうのは非常にもったいないとも思う。
意味が固定的だと思っていると何も起きないし何も生まれない。