youtubeミスチルの「箒星」を見る。
またもやミシェルゴンドリーのようで
ミシェルゴンドリーではない。
「かたち」としての手法はさておき
これはこれで日本人らしさが出てて楽しめた。
こういうの、流行っているのだろうか。


手法を単なる手法としてきちんと管理すれば
そこから生まれるただの「かたち」以外にも
見るものが生まれてくるものかもしれない。


「かたち」としてイメージできている
「理想」や「やりたいこと」なんて
自分の好きな曲をカバーするのと
なんら変わらないのではないか。
それはそれで楽しいんだろうけど
楽しいだけだろう。


というようなことを考えていたら
「目的」と「手段」がなぜ入れ替わるのか、が
実感としてよく分かった。
欲望は「手段」の方に流れやすいようだし
もともと「目的」なんかあるのかどうかも怪しい。


僕には「目的」がないので「手段」もあってはいけない。