9月7日、なんか食べ物を買うべくN氏から自転車を借りてお好み焼きを探してキララ九条の方まで行ってみると、地下鉄中央線の高架下の交番の向かいにあるバスケコートみたいなところで、地球(追記。地球でなくて「地」っぽい。後に風と炎、火?がくることを考えると)・風そして炎という、直訳するとそんな名前の昔のアメリカのバンドの、直訳すると9月という曲が流れるなか、ともかくバスケっぽい格好をした人たちが、左右の手にそれぞれ一本ずつ持った二本の長い縄を回す人たちと飛ぶ人たちに分かれてなわとびをしていて、「形から入る」ということについて考えてみたいと思ったけれど面倒くさくなった。形から入る、なりきる、真似する、ことは嬉しかったり楽しかったりするということは割とみなさんに共通していると思われるけれど、カラオケとか、モノマネとか、〜してみたとか、カバー(コピーとの違いがもはやあやふや)とか、コスプレとか、パロディとか、先人の成果を引き継ぐとかインスパイアとかオマージュとかは微妙に違うのか。心持ちとしては近そう。まっさらの白紙から新たになにかを始めたり作ったりすることが不可能である以上、ほぼあらゆる活動の原動力として、この「型・パターンをなぞる嬉しさ」があるように感じられて、なんとなく不思議。で、「型をなぞっていることが他人に通じた嬉しさ」っていうのもあって、こちらの方がさらに不思議。「型をなぞる」と「他人と通じる」という、それぞれ単独でも成り立つ、それとしては無関係な嬉しさ同士が合わさった嬉しさ。だといま考えてみたけれど、たぶん違っていて、「型をなぞる」には最初から「他人と通じる」が組み込まれている。いま私が単独で成り立つと考えた場合の、いわゆる一人だけで型をなぞっている場合の「型をなぞる」でも、一人の人間が、なぞる主体とそれを了解する主体に分かれつつ合わさっているような状態だと考えた方がすっきりする。そしてたぶん逆も同じで、同様の要領で「他人と通じる」に「型をなぞる」が組み込まれている。型を介することなく他人と通じることはできない。それ自体が型としてある程度かたまったものでないと、それを使ってやりとりすることそのものが成り立たないし。「他人と通じる」という時の「通じる」は本当に通じたからそう感じるのではなくて、型のルール上において「通じた」とされる状態に至ったことがお互いに了解されたからなので、その意味でも、型なしでの「他人と通じる」はあり得ない、というもろもろについてなにで読んだのか聞いたのか、まったく思い出せないけど、なにかで読んだか聞いたかしたことは確か。