新郎あるいは新婦の父・母・兄・姉(弟・妹ってのは見たことないような)は、披露宴で挨拶しながらみなさんにお酒をつぐという「型」(慣習)と、自分がまさにその兄に当たる状況が近々やってくるということに思い至って、感慨深いなと思いつつ、冠婚葬祭、とりわけ婚と葬はやはり型というか様式、形式が強力に機能している、また、形式の力が必要とされる場なんだなと風呂に入りながら思う。儀式なんだから、様式・形式が重要ってのは当たり前だけど、実際に結婚式・披露宴に出たりすると「型に沿う」ことの威力を身をもって感じる。葬式よりは結婚式・披露宴の方が「型」の威力を感じるような。なんというかな、「型」っておもしろくて、その場のみんながある「型」に沿っているという合意があるとき、その「型」に含まれる感情、たとえば結婚式・披露宴だと「祝い」の感情を、思う存分だしてもいいことになる。「型」に沿っているからなんですよってことになるから、素直に感情を持つことができるようになるというか。たとえば、披露宴での両親への手紙の朗読とか、ああいう「型」のなかでないとなかなかできない。照れてしまったり、気恥ずかしかったりして。披露宴という「型」はそういう気恥ずかしさを軽減するようにできている。といっても実は、素直に感情を持つことができたり、照れや気恥ずかしさを脇に置いたりできるのは、「型」に沿える・没入できる場合だけであって、そもそも「型」に沿いそびれた場合には、「型」の力からは排除されてしまうけど。言ってしまえば、「型」にはまれる、「型」の演技性を受け入れられるくらいの素直さがないと、「型」の機能、つまり「型」によって得られる素直さ、が得られないという。「型」の演技性を受け入れられるくらいの素直さを発生させる機能は「型」そのものにはないから(「型」以前の話であるし)、たいての場合、規範がその役割をしているのだけれど、規範を受け入れる動機がないとなると、「型」の演技性を受け入れる動機もないことになる。「型」の演技性の問題はずっと気になっている。冠婚葬祭はまだいいけど、それらはなんというかしょうがないからだけど、それ以外の「型」の演技性については、なかなかむずかしい。よくある枠組み(〜といえばこれ、みたいな)をつかうことはすなわち「型」を使うということになるわけで、そうなると「型」の演技性の問題がでてくる。演技性って説明もなしに書いたけど、「型」に沿うことって、やっぱり演技だと思う。自由にやるのではなく、型をなぞるってことだから。型を知ってないといけないし、それを恥ずかしがらずにやりきる動機もないといけない。なんで「型」を使うのかというと、「型」通りにやれば、その型に含まれるなにかしらの○○を「したことになる」からなんだろう。つまり「型」通りに葬式を行えば弔った「ことになる」。そういうやり方でしか誰の目にも明らかなかたちで「弔った」ことにはならないから。とすると、「誰の目にも明らかなかたちで」というのが、重要な気がしてきたぞ。第三者に対するアリバイというか証明みたいなもんなんだな。結婚式・披露宴もまったくそうだし。あとはまあ、「型」自体を新たに作ったとしても、「型」通りにやれば、その型に含まれるなにかしらの○○を「したことになる」という構図は変わらないと思われる。「型」への違和感って、「規範」への違和感とつながってる気がするし、なにより「型」に沿うことって、その場のノリに合わせるということでもあるので、ノリを強制される気持ち悪さを思い出すんだろう。でも、ノリのない出来事ってのは、なかなかない。ノらないと、と感じてしまうこと自体がもうすでになんか気持ち悪いんだよなあ。