「無縁」でググっても仏教用語としての「無縁」は検索結果の上位に出てこない。「無縁 仏教」で検索して出てきたこのページの文章を読む。
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq000001i0ks.html


曰く

 仏教で「無縁」という場合、縁がないという意味ではない。縁を「条件」と訳してみれば、よく分かる。無条件、つまり条件に関わらないことを意味している。その代表が「無縁の大悲」と言われる仏の慈悲である。相手が誰であろうと、差別することのない平等の心である。
<中略>
関わりを断つのが「無縁」ではない。分け隔てなくつながっていく方向を指し示す言葉なのである。

このように「無縁」という言葉をとらえるなら、「無縁社会」という言葉で指し示されるものは、人間だれしも持っている条件・属性に関わらずつながったり(はなれたりも)できる社会である、ということになるのかしら。いや、仏教用語としての「無縁」を「社会」にくっつけるのは無理があるのかもしれない。無縁=「相手が誰であろうと、差別することのない平等の」社会??こういう言い方だと、社会なるものが実体としてあって、それが差別したりしなかったりする、ような感じがある。しかし、縁をつくったりこわしたり、あるいは誰かを差別したりしなかったりするのは、概念としての社会ではなくて個別の具体的な人間なんだから、「無縁社会」=「人間だれしも持っている条件・属性に関わらずつながったり(はなれたりも)できる社会」という解釈にも違和感があるといえば、あるし、これとてNHK発のいわゆる「無縁社会」とそう意味は違わない気がする。良い意味で、か、悪い意味で、かの違いしかないというか。仏教用語として忠実に「縁(条件)に関わらず」としても、「無縁社会」=条件・属性関係なしの平等なサバイバルみたいに言えちゃうし。結局は、そのサバイバルを生き残れる人(=つながりを主体的にコントロールできる人?)しか生き残れませんよ、みたいになるのかしらな。「地縁」・「血縁」・「無縁(網野善彦が言っている、らしい、日本の中世における世俗の権力や支配の及ばない場所としての無縁。いまでもあるような気はするけれど)」のすきまに落ち込んだ人はどうなるんだろうな、という。