近所からなんかの音楽が聞こえるけどなんの音楽かはわからない。そしてときどき近所の高校生かな、のおにいさんが、高校生をおにいさんとはいわんが、かといって、高校生の男の子っていうのももう男の子っていう歳でもなかろうし、むずかしいところ。ともかく男子高校生が道でラップをしているのが聞こえることがある。ラップをしている男子高校生には自分の住む地域のことはどういうふうに見えているのだろうか。どういうものに興味があるか、つまり、どのようなものに価値を感じるか、によって、抽象的な意味での「自分の視野」がある程度は決まる。ある程度とひかえめに書いたけれど、実のところはほとんどこれで決まるんじゃないかしらな。とはいえ、さきほどの高校生のはなしに戻れば、おそらくラップ=都市というわけでもなく、むしろJPOP、ポップスとしての日本語ラップって地方のヤンキー文化との親和性が高そうで、たとえば家族、愛、家庭をもつこと、親になること、親子の絆、子どもとの絆、みたいなものが多いように思う(スーパーでかかってる有線を聞く限りは、だけれど)。つまり、地方(田舎)において一般的な人生設計というかライフコースにぴったり合う。なので、「田舎」と「ラップ」というのは互いに矛盾せず、都会に憧れたり、都会を目指したり、する必要がない可能性があるなと思った。これは面白いと同時にけっこういい話のようにも思える。でもまあ、裏を返せば、地方(田舎)における人生設計というか、生活のスタイルが、ぜんぜんこれっぽっちも多様化してないということで、しつつはあるけれど、まだぜんぜん画一的なんだろう。別にいいっちゃあいいんだが、ともかく都会への人の流出は続くだろうし、地方(田舎)が似たような感性のひとたちばかりになるよと思う。というのは、はんぶん間違いで、そこに住む人たちの感性・性質の同質性=画一性=多様性のなさ、というのはそれこそめちゃくちゃ狭い見方で、そこに住む人たちの「なかの」多様性、潜在的な、にも目を向けると、すこし変わってくる。そもそも、人間の感性なり性質なりは固定的なものではなくて、その都度の状況とか環境に応じて変化していると思う。ほいで、はんぶん間違いというのは、はんぶんは当たってるんじゃないかということだけれど、「環境」が画一的であるとどうしてもそこに住むひとの感性とか感覚とかも画一的になってくる(画一的な環境で多様性を維持するのは高コストすぎる)、ということは、その「環境」に馴染めない人は出ていかざるをえない、あるいは孤立というか、「環境」、つまり言い換えると人間の関係の束としての地域社会のことだけれど、との接点を持たない生活をせざるをえない、という意味で、人の流出は続くので、はんぶんは当たってると思われる。あとは、流出と書いたけど、当たり前のことながら、出ていく余裕のある人が出ていき(大学進学とか)、出ていく余裕のない人は出ていけない。そして、都会と同じく、家と職場の往復だけであとは遊び場・店があればいい(そして気のおけない友人がいればなおいい。ネット上でも可)、という生活がいちおうは可能なので、画一的な「環境」から退出せずとも、そのなかにおいて退出することができる。このこと自体はむしろ良いことで、これが許されないとなると、ほんとに無理してでもどこかに逃げていかないといけなくなる人たちが出てくるかもしれない。都会くらいにみながバラバラな関心のもとバラバラに暮らしてても成り立つんであればいいけど、田舎はそのへん中途半端かもしれん。バラバラな関心のもとバラバラに暮らしてても成り立つくらいの人の密度がない。人がとにかくたくさんいるというのは、そういう効果もある。かといって、共通の関心・テーマとなると、産業振興、観光振興、まちおこし、、、とかそういうのばっかりになって、これが悪いわけではないが、これらがあまりにも「正論」で「真面目」すぎてそのままではみんなの動機をなかなか誘わないのと、これらのテーマについて動機がある人たちといえば産業あるいは観光あるいはまちおこしによって直接の利益を受ける人たち、つまり産業・観光業界内部の人たちということになり、そうなるとどうしても直接に利益がでるようなやり方(たとえば「イベント」ばっかりやるとか)に偏ることになる。そうなると、ますますその業界の外にいる人たちからすれば自分に関係ないことになっていく。これはひとつ大きな問題としてある。だったら、どうしたらいいかというと、よくわからない。異なる利害を持つ人たちに参加してもらう工夫をすることと、直接に利益を生み出すようなやり方を考え直すこと、くらいか。直接に利益を生み出すようなやり方そのものが、利害の「内」と「外」を生むわけだから。