ちなみにケツメイシのCDは持っていません。きんじょうと電話で話す前にはよなさんちに行っていてきんじょうと電話で話した後にはよしざわと電話で話す。15:30くらいによなさんちに行くとよなさんはソファで寝ていて、机の上の携帯ラジオからはAMが流れていて、そーっと入っていってソファの後ろのシャッターの後ろからホーホーとかシューシューとか言ってみたが起きそうにないので、30分ほどラジオで遊んだり、半年以上ぶりくらいでギターを弾いたりする。ちなみにギターはエレアコ。弦は錆び気味。なんというか、高校の頃からうすうす気付いてはいたのだけれども、楽器で私ができることが見当たらない。。こんな演奏の何が良いのか。いや、良いとか思っていないけれども。楽器を自由に扱える人は羨ましい限りだ。ほんとに。きんじょうとの電話のなかでうまいとこ言えなかったことがあって、それは、ひとつの対象をゆっくり見るために選別したい、というよりも、偶然出会う対象をゆっくりじっくり見るしかできないかなー、と。選んでも仕方がない、ということかもしれんね。「良い」もの、「素晴らしい」ものを見たいわけではないから、たぶん。といっても、「悪い」もの、「どうしようもない」ものこそを見たいというわけでもない。生きているあいだに遭遇するものをその都度見るだけ。よなさんちの横の川にて夕方からルアーを投げてみる。釣りは同じ場所に長時間佇むのに最適。スズキが釣れるらしい。釣れたら焼いて食うのか。ポアレか。スズキのポアレというのは、会社勤めのときのランチ時になんかよく見たような。詳しくは知らない。食べたことはある。よなさんちで読んだコミックキューは面白かった。この道の先の高架をちょっと行ったところに釣りをしに行く途中に子猫が箱に捨てられているのを見つけて、釣りの帰りに拾って帰るつもりで、子猫が出ないように箱のフタを閉めておいたのだけれど、釣りをしているときに箱の方を見てみたら猫がいて、あれ、出たのか!と思いつつもちょっとでかいような気がしていると、その猫が箱を開いて中の子猫をくわえて材木置き場の方に連れていってしまった。猫が猫を拾う。猫が猫に拾われる。というような感覚は猫にはないだろう、というはなしをよなさんから聞く。それはすごい、ぜひ見たかった、と私。末永史尚さんのにつき(はてな)http://d.hatena.ne.jp/kachifu/経由にて。ブログ通信簿http://blogreport.labs.goo.ne.jp/tushinbo.rb


この可も不可もなさがすごい。ブログ年齢55歳って。うちの父ちゃんと同じ。漫画原作者って。そして、ここに書いてあることのようなことを、普段はぜんぜん考えていないとまでは言わないけれど、かなり偏った方向に増幅されている、ということはきんじょうとの電話のなかでうまいこと言えたと思う。それと、人間はほんとうに、俺はあいつとは違う!どう違うかは分からんけど!というかたちでしか自分について思考できないのだろうか。誰かを踏み台にすることでしか自分について思考できないのか。というか、そんなに自分をかたちづくることが大事なんだろうか。たぶん、その都度の自分なるものしかいませんよ。その都度、誰かを犠牲にしながら、その都度の自分を正当化する作業を延々と続けるのですか、というのはふとしたときに思う。主に「私のやっていることは〜ではなく、〜でもないものなのだ!」というような思考法を目の当たりにしたとき。自分も基本はそうだから、これどうなんだろう、、と思う。いや、いいんですよ、表現したり主張したりすることは、他の表現や主張を殺すことをそもそも含んでいるので。とはいえ、その思考法はほんとうに「〜ではなく、〜でもないもの」を思考するものなのかどうか、ということです。「〜ではなく、〜でもない」と言いたいだけではない、と言い切れるのでしょうか。あれもダメこれもダメと言いたいだけではない、と言い切れますか?あれもダメこれもダメと言えちゃう自分はダメじゃない!と思いたいわけではない、と言い切れますか?どうしても両方混じってしまうのではないでしょうか。「自分が」必要「でない」と「思う」ものを「殺す」のが表現や主張なのでしょうか。もちろん、必要でないとまでは言わないが、個人的には趣味ではない、くらいの言い訳は用意してあるでしょう。でも本音では必要でないと思っていませんか。ある対象が、自分の志向に合うか合わないかと、社会に必要か必要でないか、は別物ですが、ひとりの人間のなかではそのふたつの混同が避けられません。これはなぜなのでしょうか。あ、後者が客観的に導き出されることはない、ということかもしれませんね。ともかく、あれもダメこれもダメ、と言えちゃう俺はダメじゃない!式思考法はどうなんかいなと思います。と言えちゃう俺はダメじゃない、と私は思っているのかもしれません。とブログ通信簿の忠告に従って、自分の意見を述べてみました。とはいえ、あれもダメこれもダメ、と言えちゃう俺はダメじゃない!式思考法の人なんてそもそもいないのかもしれません。それぞれみんなときどきそこが増幅されることがあるというだけで。とはいえ、ほんと、「〜と〜を引き継いで自分なりに深めてみた」というのがどれだけ誠実で生産的か、とは思います。「どう」違うか理解しないまま「違うということ」だけをやたらに強調するよりもよっぽど誠実かと。なんでも疑うのとなんでも否定するのは違うだろうし。批判と否定も違うだろうし。うーん、やっぱり、なにかへの違和感を違和感のまま提出してもちっともさっぱり面白くない。褒めて伸ばしたいし褒めて伸ばされたい。からには褒めどころを見る目がいるし褒め方の技術がいる。当たり前のことながら。