□□□の新曲「GOLDEN KING」はPV共々とても楽しい。
タワレコの試聴機で□□□のとなりにあったりして
よく見かけるANAも試聴してみるけれど
なんというか「せまい」感じがした。


昨日のOPENPOOLセッションは
セッションって何?
と改めて思った。
音を出しながらなんらかのベクトルを探っていく
作曲としてのセッションとは違う
セッションそれ自体が目的のセッションとは一体何だろう。


昨日もそうだったが、大きく分けて
あくまで「音楽」として捉える向きと
音楽というより「出来事」として捉える向きが
あるように思う。


個人的には、何の決まりもない
「音楽」としてのセッションに
面白さは感じない。
それでうまくいったと思える場面があったとしても
やっていく中である決まりができただけのことで
大抵は落としやすいところに落ちているだけだったりするし
中途半端に落とすくらいなら落とさない方がマシだったりする。
音楽としてやるのなら、個々の演奏者を大きな枠組みの中の
それぞれになんらかの傾向をもつ不確定要素、変数として扱う方が
プロセスとしては面白いものができやすい。
結果は大きな枠組みにおける全体のベクトルをどれだけ絞るかで
ある程度コントロールできるのだが、言うのは簡単で実際は難しい。


では「出来事」としてのセッションはどうか。
正直これも個人的には違和感がある。
なんだかお笑いの「物ボケ」をいつも思い出すのだが、
一見非常に自由に見えながらも、結局は音楽の中の「出来事」
つまり、音の出る「出来事」というルールに縛られていることや、
「わたしならこうする」というような自己主張めいたものを感じたり、
そういうもろもろによっていつもなんだか居たたまれない気持ちになる。
私は「誰が」「何を」するのかには全く興味がなく
「誰が」という個人を超えた
「そこで」「何が」起きるのかに興味がある。


セッションそれ自体が目的のセッションとは
楽器、方法論、音楽観、性格などから成る複数の磁場(演奏者)を
強引に一カ所に集めることで起きる衝突、であるのは
見たら分かることなのだが、内容ではなく、
衝突という現象そのものに目を向けない限り
救いがないように思えて仕方がない。
といってもその救いそのものについては
とても頼りなく弱々しいために
なかなか掴むことができず
私自身よく分かっていない。
音楽という入れ物に入っていながら
音楽を離れたところにしか
救いがないような気がするのが
なんだか救いがない。
と感じるのもこれからいろいろ見聞きする中で
変わっていくだろうし変えていくつもりではある。


後ろ向きなことをバラバラにまとまりなく書いてしまったが
だからといって何も得るものがなかったわけではなく
セッションについて考える材料が増えて
非常に有意義な時間を過ごせたと思う。


ちなみに昨日のセッションで私自身何をやっていたかというと
それぞれ30分テープの入った
マイク、スピーカー内蔵のテープレコーダーを2台持って、
まずそのセッションそのものを開始後すぐに
30分テープの片面15分録音してすぐ巻き戻し、
次はその15分間を再生しながら
もう一方のテープレコーダーで
30分テープの片面15分録音してすぐ巻き戻し、
次はその15分間を再生しながら
もう一方のテープレコーダーで、、以下同様
ということを制限時間60分の間に4回やろうと思っていたのだが
いきなり最初から2倍モードで録音してしまっていたりして
2回くらいしかできなかった。
そのセッション自体がテープレコーダーを介して
どんどん入れ子状になっていくのを見るのが
楽しそうだと思ったのだが、
おそらく観客や他の演奏者のみなさんは
特に楽しくはなかったに違いない。
唯一、ティム・オリーブさんが終演後声をかけてくれて、
私のこの行為を気に入ってくれたのだが
どうやらテープレコーダーの音自体を気に入ってくれたようで
誤解とはいえ、これはこれで嬉しい誤解である。


そういえばメンバーに名前が入っていた
稲田誠さんを見かけなかったことに
いま気付いた。