なぜ音楽をやっているのか、何のためにやっているのか、
という素朴だが根本的な疑念に取り憑かれている。


私は「演奏」する喜びへの欲求も薄ければ
音楽を介した他者との意思疎通への欲求もあまりない。
(普段の生活における意思疎通で十分である。
ひょっとすると音楽における意思疎通の
形式自体を疑わしいと思っているからかもしれない。
そこはあまりにも簡単に偽ることができて
あまりにも限定されている、ように思える。)
音楽を「聴く」という喜びにさえあまり欲求がないかもしれない。


つまるところそんなに音楽が好きではないのかもしれない。


本当に音楽が好きで音楽をやりたい人であれば
そんなことを考えてあれこれ悩むのは
時間の無駄であり逃避でしかないだろうから。


しかし何故それでもなお音楽について思考し
「かたち」(最小限ではあるものの)を
作っているのか不思議でならない。


私の数少ない友人たちと話をする時に
何気なく(を装って)「何故音楽をやるのか」
という意味のことを聞いてみている。


ある友人は「自分を知ってもらうため」と言った。
また違う友人は「人間だから」とも言った。


だがどちらも私の疑念を晴らしてくれるものではなかった。
もちろんそれらの答えが間違っているといいたい訳ではない。
ただ、音楽というひとつの世界に生きる前提(もしくは世界そのもの)への
疑念をポジティブに考えていきたいだけである。


そのときに注意するべきこととして、
「疑念を持つ事」そのものを拠り所として
音楽の世界を生きてしまうことは避けなければならない。
例えば音楽そのものを疑う音楽家、というような。


常に不安定な、崩壊寸前のところに
いなければならないだろう。


とはいってもそんなことは不可能である。


「音楽」という言葉、概念を使うことは
すでに「音楽」の内部にいることを表わしている。
音楽は「音楽」の中でしかなされないのだ。


だがそれでもしつこく考えてみたい。
私はなぜ音楽をやっているのか、ということから
人間はなぜ表現せずにはいられないのか、を。


そんなことは当たり前だと言われるかもしれないし
ただのひまつぶしでしかないかもしれないが
「かたち」を作ることに興味が持てなくなりつつあるいま、
このような方法でしか音楽に関われないのも事実である。


そうしているうちに「かたち」の世界に戻る時が
来るかもしれないし来ないかもしれないし
そんなことは別にどちらでもよい。