t氏のメールへの返答(音楽と言葉について)
(メモを繋ぎ合せるのが面倒というかそれはそれで難しいので
今回はちょっとメモっぽい文章)

●かんかく【感覚】

(名)スル
(1)目・耳・鼻・皮膚・舌などが身体の内外から受けた刺激を感じ取る働き。
また、感じ取った色・音・におい・温度など。
哲学的には、感覚は知覚の構成分であり、
まだ意味づけられていないものとして知覚とは区別される。


●ちかく【知覚】

(名)スル
(1)知性によって知り悟ること。
(2)〔心・哲〕〔perception〕感覚器官に与えられた刺激作用を通して、
外界の事物・事象を、ひとまとまりの有意味な対象としてつかむはたらき。
知覚を構成する基本的要素が感覚で、こちらは物理的属性との関係で
部分的なものとして捉えられることが多い。


[gooの辞書(三省堂提供「デイリー 新語辞典」)より]

感覚=知覚の基本的要素、意味づけられていないもの
だとすると、言葉で語るということは
それらのまだ意味づけられていないものたちに光をあて
姿をよく見ようとすることではないだろうか。




去年、米子君とのデュオライブが決まった時に
「言葉」を使って会場にあるものをひとつづつ表わして
声に出していったら面白そうだ、ということを思い付いて。


そのままでは網膜の像でしかないものも言葉で表わすことで
頭の中に定着してきて最終的には最初に見た会場の風景とは
また少し違うものが見えているかもしれないと思った。


でも実際やってみると網膜には映っているけど見えていないもの
がたくさんあるようで、見えやすいものしか目に付かなくて
すぐに言葉が途切れてしまったんだけど。


音楽を言葉で語ることと、風景を言葉でもう一度「見る」ことは
根っこの部分で同じではないかと思う。




音楽そのもの:言葉としての音楽
は切り離された別のものか?




音楽を、聴いて楽しむことは感覚だけで事足りるが
音楽について考えようとする時、言葉が必要になる。
絡まりあった「感覚、意味づけられていないもの」を
言葉に置き換え、解きほぐし、ひとつひとつ整理すること。
その中からさらにいま必要なものを取り出し細かく観察すること。


また聴覚体験としての音楽と思考としての音楽に
優劣などなく、それぞれに「音楽」の違った側面であり
音の聴き方、認識の仕方を介して相互に作用するものだと思う。



t氏が持っている「音楽を言葉で語る」ことへの違和感は
「意味づけられていないもの」が「意味づけられる」時に起こる
食い違いや勘違い、またはそのことによって
「意味づけられていないもの」自体が変容してしまうことへの不信感なのでは。


あるいはただ単に、巷に溢れる音楽についての
音とは関係のない言葉遊びとしか思えない
無意味な理屈に疲れたのかもしれない。
(ライブのフライヤーとかのアーティストの紹介文に多いよね。。)