おととい書いたSJQについて書き漏らしたことを書こうとしてあることに気付く。SJQをサムライジャズカルテットって書いたけれど、クインテットの間違いだった。SJQ=Samurai Jazz Quintet。ごめんよ。アサダ君が戻ってきて5人になったのだった。魚住さんが開発した人工生命=音楽ソフト=gizmoを入れたら6人だけど。そして本題。きょう考えたことを時系列に沿って書くならば、河野さんの『つまりはもしかして対象として音を聴くなんていうことは実は不可能なんじゃないか?』ということからなんだけれど、とりあえずSJQから。きょう読んでいた、木村敏「生命のかたち/かたちの生命」、「2 主体と主体性」より。

 いま一つの困難は、主体という語に通常含まれている個別性の問題である。主体というのに値するのは他と交換不可能な唯一の個別者だけだと、一般には考えられている。
 しかしいま、渡り鳥のように群れをなして行動している生物を考えてみる。もちろんこの集団は一羽々々の鳥の個体から構成されている。一羽々々がそれぞれに餌をついばみ、交尾し、産卵する。一羽々々の個体間にはさまざまな相互関係が生ずるだろう。しかしその一方で、群れの全体はまるで一つの大きな個体のようにまとまった行動を示す。気象条件とか外敵とかその他さまざまの環境的要因次第で、群れの全体がまるで申し合わせたように一斉に行動を開始する。この集団的行動の中でも、それぞれの個体の主体性は完全に失われてしまうわけではないのだろう。しかし、少なくとも外から見ていると、群れ全体のまとまりの法が各個体の主体性より明らかに優位に立っている。
 この場合、実際に環境との生命的な接触を保ちながら、環境の変化に即応して行動しているこの群れの全体を、やはり一個の主体と見なしてはいけないだろうか。一個の、それなりに個別的な群れ全体の主体が、その中に多数の、やはりそれぞれに個別的な主体を含んでいるという重層的な構造を考えてはいけないだろうか。

おとといの『個々のメンバーの出す音にそんなに個性があるわけではないけれど、それは裏をかえせばどれが誰の出している音か分からないほど混じってしまっているということで、そういう意味で、個々の演奏じゃなくて、ぜんたいとしての音楽が、ぶわーっと生まれていく。』というのは、この引用のようなことを言いたかったわけで、さらにいえば、SJQの場合、3つの層がある。SJQというバンド全体/個々のメンバー(+gizmo)/gizmo内の個々のエージェント、というふうに。gizmo内の個々のエージェントについては『環境との生命的な接触を保ちながら、環境の変化に即応して行動している』といっても差し支えないと思う(環境=エージェント間の関係の全体)。これに対して、個々のメンバーの楽器・機材については、メンバーの主体性に従属しているといわないといけないと思う。これもけっこう微妙なところだけれど、つまり楽器や機材も完全にコントロールできるわけではないともいえるからで、とはいえgizmoと比べた限りでは、主体が環境にはたらきかけるための「道具」だといわないといけない。gizmoはそれ自体が環境でもあり、ひとつうえの階層では(バンド全体のなかでの位置付けでは)道具すなわち楽器・機材でもある。まあでも、楽器・機材の場合も同じで、それ自体が(主体にとっての)環境(条件、所与、世界、と言い換えてもよい)であり、ひとつうえの階層では、道具でもある。あと、木村さんの記述はどこか複雑系のはなしにも思えるが、ぜんぜん違う。個々の単純な振る舞いから全体の複雑さが生じる=創発のはなしではなくて、主体という単位の見出し方の違いについてのはなしで、今回SJQのライブを見て私が興味を持ったのも、そのへん。複雑さっていうのには興味がなくなっていて、なんというかそれも相対的なものというか、たとえば、複雑なものを「複雑だ」って思った時点で複雑じゃなくなるというか、つまり複雑なものに「複雑」っていう呼び名を与えて対象化した時点で認識のうえではたいして複雑じゃなくなる。「ない」という状態に「ない」っていう呼び名を与えるのにも似ている。名詞化するというか。ちがう言い方をするならば、海の波の動きの細かい部分を、ざっくりとした呼び名を与える=名詞化=グルーピング?を使わずに、本気で知覚しようとしたら、たぶん狂ってしまうと思うし、人間はそうならないように、そうできなくなっている、たぶん。たまっていた牛乳パックを切る。うちにあるハサミは長時間つかっていると手が痛くなる。でも大抵のハサミはそうかもしれない。同じものを大量に切り続ける、なんて想定されていないし、そもそも一般には求められていない。いろいろ書いていたら、河野さんの『つまりはもしかして対象として音を聴くなんていうことは実は不可能なんじゃないか?』について考えたことを忘れた。でもなんとなくいま書いたことのなかに入っているような気もする。主体性と対象化=呼び名を与えることについて。あと、三太の8号に書いたことは、ざっくりといってしまえば、おそらく、テープレコーダー・録音機になったつもりで聴いてみれば「聴きかた」が変わるかもしれない、ということになるのだろうけれど、このへんについては、いまはあまり興味がないかもしれない。「つもりで」ってなんだよ!人間はテープレコーダーじゃねえし、という。認識論というか、すべてが聴きかた次第でどうにでもなる、っていうのは、ちょっとどうだろう。どう、どうだろう、なのかはよく分からないけれど。だんだん、建築家のことばに惹かれる理由が分かってきた。デザインという行為にもいろいろあるけれど、空間、環境をつくる、っていうのはどこか他のデザイン行為とは違うというか、変だ。さっき書いた、それ自体が(主体にとっての)環境(条件、所与、世界、と言い換えてもよい)であり、また別の階層では、道具でもある、ということが明確に意識される。ドライヤーを環境というのにはすこし抵抗があるが、住居を環境というのには抵抗はない。ポスターは環境ともいえるけれど、そういう場合のポスターは街に貼られ街と関係し環境化したポスターであって、ポスターだけでは環境とはいえない。ウェブデザインはどうだろ。環境ではあるけれど、道具ではないな。情報の媒体でしかないような気はする。青木淳「原っぱと遊園地」、西沢立衛「建築について話してみよう」を気まぐれに交互に読んでいるのだけれど、世代も違えばやりかたも違うふたりになんとなく共通しているように思われるのは、建物が人間にとってどうあるべきか、というか、使いたくなる空間、触発する空間をどうやったらつくれるか、みたいなこと。しかも、それを使用に先立って計画されたお仕着せの「使いたくなる」、「触発される」ではないふうにつくりたい、というむずかしさ。ある意味や観念をかたちをつかって伝達・表現するのではなく、使っていくことで目的が発見されていくような「未目的」の空間をつくること。青木さん西沢さんにどこか共通しているように思えるこの姿勢にはつよい共感をおぼえる。演奏でもパフォーマンスでも作品でもなんでもいいけれど、そういうものをやったりつくったりする場合、「対象」としてのモノやコトをつくるのが当たり前だし、「対象」としてモノやコトをみるのが当たり前みたいになっているように感じるけれど、なんとなく「つくる」こと・「つかう」ことをものすごく狭く捉えているような。そもそもなにかを「つくる」っていった場合の、どう「つかわれるか」、つまりどう受け取られていくか、についての思考がものすごく単純で、意図や気持ちやなんかの内容がうまく伝わるかどうか、うまく表現されている(と自分が思える)かどうか、にしか焦点が合っていない。そういえば、「機能」についての西沢さんの考え方が面白い。西沢立衛「建築について話してみよう」、「建物の創造的な原則について」より。

「建物をどう使うか」の原則を考えるにあたって僕はまずスタートとして、「機能」を考え始めた。また「機能」というものを、「機能的かどうか(使いやすいかどうか)」という問題ではなくて、「使いたくなるかどうか」もしくは「その空間は使いがいがあるかどうか」という問題と理解した。「機能→使いやすいかどうか」と翻訳すると、なにか機能というものが息苦しくなっていくというか、機能ということばが利便性とか経済性みたいな方向になっていくが、「機能→その空間を使いたくなるかどうか」と翻訳すると、それはもっと快楽的な問題となる。機能を快楽と考えると、食べる快楽にしても読書の快楽にしても、いろいろな空間をつくりたくなるし、試してみたくなってくる。「寝るべき部屋」よりも「ここで寝るといいだろうなと感じさせる部屋」をつくってみたくなる。

ユーチューブにて、しまだの映像作品をみる。フィルムコラージュでつくった「ragged film」
シリーズのダイジェスト版とのこと。→http://www.youtube.com/watch?v=Z0cmQGYoku4 しまだ本人はにょろっとしているのに、こういう作品が生まれでてくるのが不思議だ。それは私も同じか。だいたい「私」なんてこの日記でしか使わないし、普段のメールでは「僕」だし、普段の会話では「おれ」だったような。普段の会話についてはあまり憶えていない。意識していないからか。えーと、このダイジェストは、#4,#1-3というふうに並んでるっぽいな。しまだのサイトには、
「ragged film#1-3」について、

私が撮影したフィルムや、
人の不用なフィルムをコラージュして制作した作品です。
様々な風景が現れては消えていきます。
意図もなくコラージュした映像に、
何かの意味が現れてきてしまうことが不思議です。

とあり、「dorothy (ragged film#4)」 について、

「ragged film」シリーズの4作品目。
同じフィルムが6回ループをする作品。
1回ごとに、フィルムに直接スクラッチやペイント
また、デジタル加工を加え、 映像が次第に変化していく。
音楽は、京都のターンテーブルディオBusRatchによるもの。

とある。なんとなく、音がない作品、部分?がとくに面白い気がしました。映像と音の手法がまるで違うことが気になるのかもしれない。かといって、音もフィルムコラージュみたいにテープコラージュだったとしても、どうやろかとは思うけど。。まったく関係のない文脈・形式の音がつくことでかえってより豊かになる、ってこともあると思うし。いまふと、記憶に音ってついてたっけな??と思う。ない気がする。記憶ってどこか言語的というか、言語的もしくは写真的な感じ。まえにも書いたような気がするけれど、人間って、ある目的とか、印象的な出来事とか、だけを憶えていて、出来事と出来事のあいだ、情景と情景のあいだ、についてはまったく憶えていないし、そもそも注意を払ってもいない。いや、払ってないというよりも、払えない。いちいち立ち止まっていたら、目的地に着かないから。因果の連関もしくは、個々の情景・出来事単位でしか、記憶されていないとすれば、「動きそのもの」は記憶に入らないし、「どう動いた」というふうに言語化されれば記憶されるだろうけど、とにかく「動き」がなければ、音もないだろうし、時間もない。そもそも、記憶には、時間的な「向き」や、空間的な「位置」なんてものが、まるでない。きのうは、来週30日におこなわれる「運河の音楽」上映会で、いっしょになにかやることになった中嶋のんとさんと打ち合わせ。なんといったらいいか、相手がどういう活動をしているかどうか、どういう会場か、などなど、いわば「止まった」情報だけを念頭において考えても、なにをいっしょにやれるのかまったく思いつかないが、実際に話し合ってみると、なにかしら出る。個々の活動や思惑とは別に、実際に話すとなにかしら出る、というのは面白い。これは、個々の活動や思惑に変にこだわっていると成り立たないことでもある。こだわりすぎるとついつい「なにかしら出たもの」を殺してしまうから。